コント:ポール君とグレッグ君(2014年第8弾)

マンキューのブログエントリにクルーグマンが反応した。

グレッグ君
今日(4/20)のニューヨークタイムズから:

コーネル大のThomas A. Hirschlと私[ワシントン大のMark Rank]は25歳から60歳の個人の44年に亘る長期データを用いて、米国人の何パーセントが人生において上述の各種の裕福度水準を経験しているかを調べた。結果は驚くべきものだった。
人口の12%が少なくとも1年は所得分布の上位1%にいた。また、39%の米国人が所得分布の上位5%で1年を過ごし、56%が上位10%で、そしてなんと73%が所得分布の上位20%で1年を過ごす・・・
固定的な1%対99%のイメージがかなり不正確であることは明らかだ。米国人の大部分は働いている期間中のある時期に少なくとも1年は裕福な時を経験している。(これは所得分布の下位についても当てはまる。54%の米国人が貧困ないし貧困に近いところを25歳から60歳の間に少なくとも一度は経験する。)・・・
1%と99%が永遠に固定されたものであるかのように扱うのではなく、米国人が人生において貧富双方を経験する可能性があるという事実を踏まえ、それに応じた政策を形成する方が遥かに理に適っている。ということで、我々は自分が思っているより遥かにお互いに共通項を持っているのだ。

ポール君
1%は常に入れ替わっていて永続的なエリート集団ではない、といういんちきな主張をグレッグ君が引用しているのにたまたま気付いたが、それを読んではたと気づいた。「待てよ、この話をずっと昔に取り上げたことが無かったっけ?」そして22年前にアメリカン・プロスペクトに書いた記事「富裕層、右派、そして事実」のことを思い出した(プロスペクトのサイトには記述されていないが、実際には1992年に掲載されたものだ)。所得の移動可能性についての節を参照のこと。
まったく、格差の否定というのは大体においてゴキブリどもの聖戦なのだ――同じ悪しき議論がとにかく舞い戻ってくる。
それと、僕の古い記事は驚くほど現代に当てはまると自分でも思う。当時既に1%に焦点を当てていたところなんか特にね。


このクルーグマンの記事は「経済政策を売り歩く人々―エコノミストのセンスとナンセンス (ちくま学芸文庫)」の第5章とほぼ同じである。また、この記事はpkarchiveにも収録されている。ちなみにこの記事には「Deconstructing the Income Distribution Debate」という副題が付いているが、ロバート・カトナーが付けたこの副題をクルーグマンこちらで「Deconstructing? Why on earth would anyone not a member of the Modern Language Association want to use an academic buzzword that has been the butt of so many jokes?(脱構築だって? いったいなんで現代言語協会の会員でも無い人間が、数多くのジョークであれほど嘲りの対象となった学界の専門語を使いたがるのかね?)」とこき下ろしている*1