ゲーム理論は直接的には現実に応用できない

イスラエルゲーム理論の大家アリエル・ルービンシュタインがThe Browserインタビューで述べているMostly Economics経由)。


その内容を簡単にまとめると以下の通り。

  • ゲーム理論というネーミングで、フォン・ノイマンは数学だけではなく広報宣伝での天才ぶりを発揮した。そのネーミングにより、何か単純なものが経済危機や核抑止力政策といった複雑な状況に応用できるという幻想を人々に抱かせた。自分の見方は同僚より極端かもしれないが、ゲーム理論は現実に直接応用できるという主張には与しない。
  • 自分が比喩として良く用いるのは論理学。論理学は哲学や数学の興味深い一分野ではあるが、それがより良い人生を送る助けになるという幻想を抱いている人はいないと思う。良き裁判官は論理学を習得している必要は無い。論理学はコンピュータ科学の発展に役立ったが、友人との討論や、裁判官、市民、もしくは科学者として与えられたデータを分析する際に直接的な実用性を提供するわけではない。
  • ゲーム理論家たちは、極めて複雑な状況を抽象化し、その各要因を定式化することに非常に長けている。自分に言わせれば、そのように定式化されたモデルは寓話である。ゲーム理論とは寓話集なのだ。世界への新たな洞察を与え、違った角度から考えさせるという点で、寓話は有用である。しかし、明日実際に何をなすべきか、あるいは西側とイランがいかに合意に達するかについて助言を与えるという点では、寓話は有用ではない。ゲーム理論も同様。
  • ゲーム理論と文学の主な違いは、ゲーム理論は数学で記述されているということ。
    • その利点は、より正確な議論や、無関係な要素を排除することや、ある主張をより厳密に調べることを可能ならしめること。
    • その欠点は抽象化において現われ、主に2つある。
      1. 一部の人々しか理解できなくなること。学界でゲーム理論を用いていると称する人でさえ、その大半はあまり理解していない。
      2. 実生活では非常に重要な情報や詳細の大部分が捨象されてしまうこと。
  • ゲーム理論家たちは実世界との関連をこれまで強調し過ぎてきた。自分に言わせれば、それはマーケティングの方便に過ぎない。自分がゲーム理論をやるのは、まず第一にそれが面白いため。それに、哲学や論理学やゲーム理論といった知的思考が、間接的ないし文化教養的に有用であることまで否定するものではない。
  • 自分が反対しているのは、実世界で問題にぶつかった時、賢いゲーム理論家がいるから彼らに相談しよう、という考え方。自分の人生において、ゲーム理論家が理論に基づいて素人より有益な助言をしたのを見たことはただの一度も無い。
  • 人々はゲーム理論家の個人の能力と、理論そのものの力を混同しているのではないか。確かに有能で地に足の着いたゲーム理論家も存在し、そういった貴重な存在は有用と言える。だが、決して実務上の助言を求めたいとは思わない有能なゲーム理論家もいる。前者の助言も、たとえ如何に素晴らしいものだとしても、ゲーム理論の威光を笠に着るべきではない。
  • ゲーム理論が実現できたことに嬉しい驚きを感じたような状況に出くわしたことはあるか、という質問に対し)ただの一度も無いし、そうしたことはそもそもゲーム理論にとって不可能、というのが自分の主張。あったとしても、せいぜい探偵小説かテレビのゲーム番組くらいか。
  • そもそも医学などとは違い、社会科学や人文科学は好きだからやるものであり、直接的な有用性を提供するものではない。文化の一部としての有用性という点では、彫刻に似ている。セントラルパークに置かれた彫刻は多くの人々に影響を与えるかもしれないが、我々のモデルもそれと同様。
    • コンピュータ科学はその点で面白い逸話を提供してくれる。イスラエルでは、実務応用を重んじた他分野に比べコンピュータ科学は抽象的過ぎるという批判を長らく受けてきた。だが、過去20年間のイスラエルのハイテク産業の大成功は、70〜80年代にエルサレムなどでコンピュータ科学が抽象的な形で教育されてきたことの賜物、という点で今や衆目は一致している。これは、抽象化が間接的に何か実用的なことにつながった事例と言える。自分も抽象的な研究から何か実用的なことが最終的に生み出されることに反対しているわけでは無論ない。ただ、それが目的ではないのだ。
  • 自分は良く知らないが、米国の核抑止力政策の発展にシェリングノイマンなどのゲーム理論の大家が果たした役割に興味がある。ナッシュなどは実際にRANDで戦略について研究していたというが、そうした経験が1950年代にゲーム理論家に実際に影響を与えていたかどうかを歴史的な興味から知りたいと思う。現在のイスラエルについて言えば、政府がイラン問題に関する戦略的に困難な決断においてゲーム理論家と相談しないことを願うが。


なお、ゲーム理論の実務への応用と言えばオークションが思い浮かぶが、この後ルービンシュタインは、シルヴィア・ナサーの「ビューティフル・マインド」に絡めて

Sylvia Nasar was a reporter for the New York Times when she covered the success of the [telecommunications] spectrum auctions in 1994. The auction was described – in my opinion wrongly – by the popular press and by some game theoreticians as the glorious success of the field of game theory, in terms of making it applicable.

と述べている(強調は小生)。


Mostly Economicsはルービンシュタインがこのようなことを言うとは意外だった、と述べ、一種の反論としてCheap Talkブログにリンクしている。



個人的な感想を述べると、ここでルービンシュタインが言っていることは、クルーグマンが日ごろ経済学モデルについて述べていることと相通ずるものがあるように思う。以前引用したこの講演録(山形浩生氏訳)から再引用すると:

さて、さはさりながら、最大化と均衡を便利なフィクション以上のものと考える経済学者は確かにおります。そういう人たちは、それを文字通りの真実と考えるか——日々の経験の現実を見てなんでそう思えるのか、かなり理解不能なんですが——あるいは経済学のあまりに確信にある原理なので、いささかなりとも曲げてはいかん、それがどんなに便利だろうと絶対ダメ、と思っているかのどっちかです。

ひとことで、わたしは経済学者たちが進化理論家から重要なことを学んでくれたら、経済学はずっと生産的な場所になると思っています。モデルはメタファーでしかなく、だからモデルを使ってもモデルに使われちゃいけない、ということです。

ただし、モデルの現実への応用可能性についてルービンシュタインクルーグマンよりかなり否定的である点では、両者は決定的に違うとも言えそうである。