昨日のエントリではThe Browserインタビューでのアナトール・カレツキーのサンデル批判を紹介したが、一方でカレツキーが褒めそやしたのが以下の本である。
Beyond Mechanical Markets: Asset Price Swings, Risk, and the Role of the State
- 作者: Roman Frydman,Michael D. Goldberg
- 出版社/メーカー: Princeton Univ Pr
- 発売日: 2011/02/07
- メディア: ハードカバー
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This “neo-classical” monetarist economic theory, which claimed to refute the conclusions of Keynesian economics, was absolutely fundamental to the political transformation that occurred from 1979 onwards with Thatcherism and Reaganomics. All the slogans – “You can’t buck the market”, “The market is always right”, “Government shouldn’t pick winners” – ultimately came back to the theories of efficient markets and rational expectations. Frydman and Goldberg demolish that theory in a more fundamental way than anybody has done since Keynes.
The main new element they bring to the demolition of neo-classical theory is uncertainty, and the impossibility of perfect knowledge. If you go back to the roots of the monetarist revolution in the 1970s, you find that all its conclusions depend on the assumption that profit-motivated individuals operating in free and competitive markets will make the best possible decisions about the allocation of resources. Frydman and Goldberg explain that this claim of optimal decisions by the markets is simply untrue, unless we also assume that perfect knowledge of reality is possible, at least in theory – and not just about the present, but about the forces shaping the future. If such perfect knowledge does not exist, even in theory, then the claims about self-stabilising markets at root of most economic policy since the early 1980s are false. And if perfect knowledge did exist, then ironically Communist central planning would work as well as a market system. All you would need is a computer large enough to take into account all this knowledge, and it would be able to plan the economy.
The reason you need markets is precisely because it’s impossible to know what the future will hold. Therefore, markets are a system of experimentation – and they will only work properly if non-market decisions, made by regulators and ultimately by politicians, set some bounds within which market prices can be allowed to freely fluctuate. This is a very important and profound insight which will ultimately undermine not just the structure of academic economics, but also the way in which people think about the relationship between markets and government.
(拙訳)
ケインズ経済学の結論を反駁したと称するこうした「新古典派」マネタリスト経済理論は、間違いなく1979年以降サッチャリズムやレーガノミクスと共に発生した政治的転換の根幹をなすものでした。「市場には勝てない」「市場は常に正しい」「政府が勝者を選ぶべきではない」といったスローガンはすべて、効率的市場や合理的期待形成の理論に最終的に帰着しました。FrydmanとGoldbergは、ケインズ以来見られなかったほど完膚なきまでにその理論を叩きのめしました。
新古典派理論の粉砕に当たって彼らが持ち出した新兵器の主なものは、不確実性と、完全な知識の不可能性でした。1970年代のマネタリスト革命の淵源に立ち返ってみると、そのすべての結論が、自由で競争的な市場において利益を追求する人々により能う限り最善の資源配分が決定される、という前提に依拠していることに気付きます。FrydmanとGoldbergは、現実世界についての完全な知識――それも現在だけでなく将来を形作る原動力についての知識――が少なくとも理論上においてでも可能とならなければ、市場による最適決定というこの主張は単なる間違いとなる、と説明しています。そうした完全な知識が理論上だけでも存在しないのであれば、1980年代初頭以降の大半の経済政策の根底にある自己安定的な市場に関する主張は誤りとなるのです。そして、もし完全な知識が存在するのであれば、皮肉にも共産主義者の中央計画が市場システムと同じくらい上手く機能することになります。そうしたすべての知識を取り入れるだけの容量を持つコンピュータを用意しさえすれば、それが経済計画を吐き出してくれる、というわけです。
市場が必要なのは、将来がどうなるか分からないというまさにその理由によるのです。従って、市場は実験システムと言えます。そしてそれがうまく働くのは、規制当局や延いては政治家たちによる市場の外での決定により、市場価格の変動可能な範囲にある程度の枠が嵌められた場合だけなのです。これは非常に重要で根幹的な洞察であり、ゆくゆくは学界の経済学の構造だけでなく、市場と政府の関係に関する人々の考え方までひっくり返してしまうでしょう。
この紹介から分かる通り、FrydmanとGoldbergはハイエクを一つの拠り所にしているようで、こちらで公開されているエピローグでもポパーやケインズやナイトと並んでハイエクに言及している。また、Greg Ransom*1が運営する「Taking Hayek Seriously」のこのページでは、同書からのハイエク言及部分が引用されている。
ちなみに日本の代表的なハイエキアンの一人である池田信夫氏は、ここでFrydmanとGoldbergの前作「Imperfect Knowledge Economics: Exchange Rates and Risk」を紹介しているが、そこで氏は
重要なのは、ハイエクの指摘したように、人々がもつ断片的な知識を市場で修正しながら経済全体で利用する知識の分業(division of knowledge)である。このように人々が不完全な知識しかもたないために市場による情報交換が必要になるのであり、最初からすべての人々が神のような知識をもっていれば、それこそ共産主義でよいのだ。
とカレツキーと同様の紹介を示した上で、“超合理主義が行き詰まった今、こうした数理経済学者まで口をそろえて「ナイト、ケインズ、ハイエクに帰れ」といいはじめたのはおもしろい”と述べている。
*1:多分あちこちのブログで良くコメントしているGreg Ransomと同一人物。