需要を巡る闘い

と題されたクルーグマンの1/24エントリ(原題は「The War on Demand」)は、大多数の経済論争の本質を言い当てたという点で、彼のブログエントリの中でも最重要ランクに位置するもの、と個人的には受け止めた。以下はその拙訳。

大不況とその余波を受けて、何とも奇妙なことが経済政策の議論に起きた。あるいは、今回の出来事が幾ばくかの幻想を取り払い、議論の本質を曝け出した、というのが本当のところかも知れぬ。それは個々の論点――たとえば乗数の大きさや量的緩和の効果――が示唆するよりも、もっと大きな話である。本質的な話は、私に言わせれば明らかに大きな総需要不足であるところの状況を目の前にして、需要側が問題になるという考え自体に対する総攻撃を我々は目撃しているのである。


もちろん、これは今に始まったことでは無い。リアルビジネスサイクル理論は、30年もの間、経済学界で権勢を振るってきた。しかし私の考えでは、RBCの連中は、公的ないし政策の議論に対してはほとんど影響をもたらさなかった。というのは、彼らの言うことは現実世界の経験とはかなり懸け離れているように見えたからだ(そして実際そうだった)。


だが、今や我々は、需要側の経済学に対するもっと広範な攻撃を目にしている。さらに言えば、需要が重要であるという考えに同意しない以前に、その考えを忌まわしいもの、理解不能なもの、あるいはその両者であると見做している人々が多いことが明らかになりつつある。私が数多く受け取るコメントの言うことには、私は金融財政政策についての自分の発言を自身で信じているはずが無い、分別ある人間ならば紙幣を刷ることや財政赤字による支出が生産と雇用を増加させるなどということを信じるはずが無い、とのことだ。――私の言っていることがすべて過去62年間もの間経済学の入門書に記述されてきたことなぞ関係無い、というわけだ。


一体何が起きているのだろうか?


第一に、ケインズは正しかった。セーの法則――所得はいずれは支出されなければならないので、供給は自らに対する需要を創り出す、という概念――がまさに事の本質にある。全般的な需要不足が起き得ることがどうしても理解できない人が、非常に多いのだ。ベビーシッター協同組合の話を私が好んでするのは、需要不足が起き得ることを身の回りのスケールで示す例となっているからだ。だが、私の経験によれば、需要が問題になるはずが無いと信じている人にその話をしても、徒労に終わる。私が話し終えるや否や、彼らは、所得は何らかの形で支出されねばならないのだから需要不足などというものは起こり得ないし、ある個人の支出増加は他の誰かの支出を同額だけ減少させる、という話に立ち戻ってしまう。


第二に、これほど多くの人々が需要不足の概念を忌まわしいものと考える理由は、部分的には、道徳の概念と結び付いている。私はこれまで、インフレと金本位制に絡めて、金融道徳主義について書いてきた。しかし、この話は単なる政策論議に留まらない。私の見たところでは、経済論説を書く人々のうちのかなりの割合が、人々が倹約をし過ぎて十分な支出を行なおうとしないために経済が苦境に陥る、という概念そのものを非常に不快に感じていることが明らかになりつつある。私個人は、美徳が悪徳に転じたり、分別が愚行に転じたりする概念を面白いと感じるタイプの人間である。しかし、そうした概念をとにかく良くないことと考える人が世の中には明らかに多いようだ。世界はそのようにあるべきでは無い――従ってそうなっていない、というわけだ。


第三に、マネタリスト――貨幣の総量に焦点を当てる昔ながらのフリードマン・タイプのマネタリストであれ、FRBは名目GDPを政策目標にすることができるし、そうすべき、と唱える新しいタイプのマネタリストであれ――需要論否定論者の側から見れば、金融の悪の枢軸の一員である。そうしたマネタリストは、需要に関する経済学上の推論に的を絞っており、中央銀行における政策の技術論に話を留めているのだ、と言うかも知れない。しかし、需要が問題になることがどうしても理解できない人たちの目から見れば、彼らは基本的にケインジアンと同じ穴の狢である。そして実際そうなのだ。需要不足が問題になるという考えをいったん受け入れてしまえば、財政政策と金融政策の役割分担というのは、単なる技術的な詳細事項に過ぎない(もちろん実務的には非常に重要な詳細事項ではあるが)。


こうして考えてみると、これは衝撃的な問題であることが分かる。我々の手元には、苦労して手に入れた偉大な知的業績がある。それは我々が実際に目にする世界を非常に良く説明しているにも関わらず、イデオロギー的な先入観と相容れないがために打ち捨てられようとしている。こうしたことが始まってしまうと、歯止めが利かなくなるのではないか? 気がついたら、今度は進化論が同じ扱いを受けているかもしれない。あれ、待てよ…。


真面目な話、これは実に悲しむべきことであり、かつ、危険なことである。需要面に関する理解は、私に言わせれば、大恐慌の完全な再来を防ぐのに大きな役割を果たした。もし十分な数の人々がその理解を共有していれば、現在我々が経験しているような軽い恐慌さえ防げたかも知れない。しかし、頑迷な無知が幅を利かせている。次の危機はうまく対処できない可能性が高いかも分からない。


この文中の「FRBは名目GDPを政策目標にすることができるし、そうすべき、と唱える新しいタイプのマネタリスト」とは当然サムナーやベックワースを指しているが、実際、この少し前のエントリで彼は以下のようなことを書いている

I’ve been watching with sympathy as David Beckworth and Scott Sumner discover that their updated monetarism actually puts them on my side of the great ideological divide — cast into the outer darkness along with John Maynard Keynes and Milton Friedman.
・・・
The point is that the real world looks a lot like the one Keynes and Friedman envisioned, in which the demand side drives the business cycle. Why should anyone be determined to throw away 75 years of economic thought, to believe that these appearances are deceiving? Why the insistence on taking an intellectual Great Leap Backward?
Well, at that point we’re into talking about the essentially political nature of this thing. Maybe another time.


(拙訳)
デビッドベックワーススコット・サムナーが独自に発展させたマネタリズムは、イデオロギー上の大分裂において、彼らを私の陣営に押しやる結果になった――ジョン・メイナード・ケインズやミルトン・フリードマンと共に外界の暗闇に放り出されたわけだ。そのことに彼ら自身も気付いたようだが、それを見て私は同情の念を禁じ得ない。
・・・
重要なことは、現実世界が、需要面が景気循環を駆動するというケインズフリードマンの想定した世界に非常に良く似ていることだ。75年に亘る経済思想の蓄積を捨て去り、こうした類似性は見せ掛けだと信じることを決心した人がいるのはなぜなのか? なぜ知的な大躍退をすることにこだわるのか?
ここに至って我々は、ことの政治的な本質に目を向けなくてはならない。それについてはいずれまた。

その「いずれまた」が上記の1/24エントリということになる。


また、翌1/25のエントリ*1ではケインズの一般理論の文章を引用しているが、それは小生が昨年10/25のエントリで引用した第三章第三節の一節に他ならない:

The completeness of the Ricardian victory is something of a curiosity and a mystery. It must have been due to a complex of suitabilities in the doctrine to the environment into which it was projected. That it reached conclusions quite different from what the ordinary uninstructed person would expect, added, I suppose, to its intellectual prestige. That its teaching, translated into practice, was austere and often unpalatable, lent it virtue. That it was adapted to carry a vast and consistent logical superstructure, gave it beauty. That it could explain much social injustice and apparent cruelty as an inevitable incident in the scheme of progress, and the attempt to change such things as likely on the whole to do more harm than good, commended it to authority. That it afforded a measure of justification to the free activities of the individual capitalist, attracted to it the support of the dominant social force behind authority.
tomokazutomokaz氏訳
リカードの勝利の完璧さは不思議であり興味をそそられる。リカードの教義にはそれが提示された環境に対する様々な適応力があったに違いない。一般の教養のない人にとって予想外の結論に至っていることによって、彼の教義には知的権威が付け加えられた。実行に移された彼の教えが禁欲的でしばしば口に苦いものであることによって、そこには美徳が加わった。また彼の教義は広範な一貫性ある論理的上部構造をもつよう作り変えられたことで、美しさも手に入れた。

多くの社会不正と明らかな冷酷さを進歩の過程の避けがたい出来事だと説明し、そのような状況を変えようとする試みを全体として善をなすより害をなすものと説明したことで、彼の教義は権力者たちの寵愛を手に入れた。個々の資本家の自由な行動を正当化する手段を与えたことで、権力の後ろにいる支配的な社会勢力の支持も獲得した。


ちなみに、小生が一般理論のこの部分を引用したのは例の齊藤=飯田論争に絡めてであったが、奇しくもその齊藤誠氏の最近の以下のツイートが、上述のクルーグマンの考えと真っ向から反する内容となっているのが興味深い(H/T wrong, rogue and booklog)。



なお、クルーグマンの1/24エントリについて、Stephen Williamsonが批判的なブログエントリを立てているが、そこでは以下のようにクルーグマンを皮肉っている。

Krugman's defense is that the Keynesian Cross has been in the Econ 101 textbooks for 62 years. I have also heard that a majority of Americans believe that angels exist.
(拙訳)
クルーグマンケインジアン・クロス擁護論は、それが経済学の入門書に62年間も記載されていた、というものだ。そういえば米国人の多くは天使が存在していると信じているそうだ。

このようにWilliamsonは、クルーグマンの考えの背後にあると彼が想定したケインジアン・クロスを腐しているわけだが、そのWilliamsonのエントリを受けたNick Roweが、彼なりのケインジアン・クロス理解について追究し*2、直近のエントリではオールド・ケインジアンにはニューケインジアンオイラー方程式では切り落とされてしまった洞察が含まれている、と称賛しているのが面白い。

*1:これはクルーグマンの1/24エントリを受けたNick Roweのエントリをさらに受けている。

*2:それによると、ケインジアン・クロスは貨幣経済でのみ意味を持つ、とのことである。