デフレは“トロイの木馬”によりもたらされたのか?

1ヶ月前に実質為替レートについて書いた時に、日本のデフレの原因を海外に求める見方の矛盾を指摘した。そうした見方は、簡単に言うと

  • 日本の生産性が低いため、海外新興国の台頭により安い輸入品が流れ込み(もしくはそうした安い商品との市場での競合により)、価格低下が生じた

という主張である。それに対し小生が疑問を呈したのは

  • 日本の生産性が低いならば、なぜ為替レートでの調整ではなく、国内物価による調整が行なわれたのか?

という点である。
しかも、そうした論者が得てして同時に主張するのは、為替レートが減価せずに国内物価が低下したので、実質為替レートは円安となった。従って為替レートはむしろ今後は円高になる、という論理である。


喩えるならば、その一連の主張によると、新興国の台頭による世界的な価格低下は、日本に関してはトロイの木馬のような働きをしたことになる。すなわち、日本は変動相場制を採っているにも関わらず、そうした価格低下は、トロイの木馬よろしく為替という城門に阻まれることなくまんまと国内に忍び込み、国内物価に直接働きかけた。そしてそのトロイの木馬により国内物価が下落すると、今度は為替という城門は内側から開いて一層円高になる、ということである。


では、この理論が正しいとして、誰がそうしたトロイの木馬を手引きしたのだろうか? 換言すれば、誰がシノンの役割を果たしたのだろうか?


一つ考えられるのは、日本の輸出産業である。為替レートは基本的に貿易財の価格により決まるため、日本の輸出産業が頑張って生産性を維持すれば、非輸出産業の生産性が高くなくても円高は維持され、それら非輸出産業が海外の低価格商品によって蹂躙される素地を用意してしまう。つまり、輸出産業の防戦のための奮闘が却ってトロイの木馬の侵入を許すことになり、背後からデフレという攻撃を受ける羽目を招いた、ということである。この理屈が正しければ、まさに「働いて円高にして首を絞め」*1ということになる。



ここで、実際のデータを見てみよう。以前OECD労働生産性のデータを用いて日米の生産性比率の推移を計算したことがあったが、OECDは、大括りの産業別の労働生産性の数字も用意している。そこで、その製造業とサービス業の数字を用いて、以前と同様に生産性比率の推移を計算してみる。


ただ、その際に注意すべきは、以前使用した労働生産性の数字はOECD.Stat ExtractsのHPの左側のサイドバーの「Productivity」カテゴリのものだったのに対し、産業別の労働生産性の数字は「Labour」カテゴリの下にある、という点である。OECDの説明によると、両者は若干異なっている*2


そこでまず、その差を確認するため、「Productivity」カテゴリの数字から計算した日米の生産性比率*3と、「Labour」カテゴリの「Total Economy」の数字から計算した同比率を並べて描画してみた。

これを見ると、確かに差はあるものの、以前見い出した定性的な傾向――1990年代までは日本の生産性の伸びは米国を上回っていたが、それ以降は概ね互角――は同様であることが分かる。


次に、製造業(Manufacturing;この分類のDカテゴリ)とサービス業(Market Services;同G〜Kカテゴリ)の生産性比率の推移を見てみよう。

ここで意外なことが分かる。日本の米国に比べた相対的なパフォーマンスという意味では、1980年代以降製造業はむしろ全体より低く、サービス業の方がむしろ全体より高い。つまり、製造業の生産性の高さが円高を維持し、生産性の低いサービス業がその割を食った、という先の仮説は、この数字を見る限り成立していない。


また、日米それぞれの製造業とサービス業の生産性の比率をグラフ化すると、以下のようになる。

1973年に比べ、米国では製造業の生産性がサービス業に対しほぼ倍増しているのに対し、日本では3割増にも満たない。

以前紹介した岩本康志氏の論考では、

バラッサ=サミュエルソン効果によって内外価格差が縮小したとすれば,わが国の貿易財産業の生産性上昇率と非貿易財産業の生産性成長率の差が,外国のそれと比べて小さかったことになる。

という推論を行なっていたが、この結果はまさにそれを裏付ける形となっている。


こうしてみると、円高が何らかの“トロイの木馬”要因*4によって維持され、それによって海外の“価格破壊”の影響がストレートに国内物価に波及した、という議論はやはり説得力に欠けるように思われる。単純に考えれば、日本の強みと言われる製造業が実はそれほどの実力でないということならば、本来は円安に振れているはずだからである*5

それよりは、国内の金融要因などがデフレを招き、それが経済の実質為替レートを維持するメカニズムを通じて円高をもたらすと同時に、景気への下押し圧力によって全体の生産性の伸びも圧迫し、結果的に産業間の生産性の差を縮小させた、というストーリーの方が整合性があるように思われる。要は、因果関係としては、円高→デフレではなく、デフレ→円高ということである。

また、そう考えると、巷間良く主張されるサービス業の生産性向上は、バラッサ=サミュエルソン効果(逆効果!?)を通じてむしろデフレを悪化させる、という皮肉な推論も成立しそうである。




[1/31update]グラフが1年ずれていたので修正しました。

*1:cf. これ

*2:Labourカテゴリの数字には次のような説明がある。
The main purpose of the Labour Productivity measure compiled through the OECD System of Unit Labour Cost Indicators is to enable users to decompose movements in the annual Unit Labour Cost into a numerator which shows Labour Compensation per Unit Labour Input and a denominator which shows Labour Productivity.
Estimates of Labour Productivity are very sensitive to the quality of data used for the labour input measure. This issue is explained in depth in the OECD Productivity Database which also presents measures of Labour Productivity at the Total Economy level which may differ from those shown in this database for some countries. The main source of this difference is the labour input measure used. The OECD Productivity Database uses total hours worked as the labour input measure for all countries where this is defined as the product of series for average hours per worker or per job multiplied by total number of workers or the total number of jobs. National accounts is the default source for this data, complemented by data from labour force surveys for those countries and years for which national accounts provide no information on hours worked. By contrast, all labour input data (i.e. total hours worked or total employment) used for this database is sourced from the OECD System of National Accounts Database. This implies that where a country has only a short-time series of hours worked data available, the historical series will have been linked to the series on total employment. The period for which hours worked data is available in those countries where it is used as the labour input measure is shown in the country data sources.
There are other minor reasons which may also lead to discrepancies between the Labour Productivity measures presented at the Total Economy level between the two respective databases. A detailed description of these reasons and an analysis of discrepancies on a country by country basis are available on request.

*3:米国÷日本。1973年を1に基準化。日本の生産性が高いほど比率は小さくなる。

*4:[2010/2/2追記]前述の比喩を踏襲すると、正確には“シノン”要因。

*5:考え方としては、ここで紹介した渡辺努氏の仮説のように、輸出産業が海外競争力を維持するためダンピングによって価格破壊を自ら実施し、延いては円高を維持すると共にデフレももたらした、という推論もあり得る。しかし、相対的な生産性低下によって自然に生じるであろう円安を敢えて逆転させるほどの価格破壊を輸出産業が自らもたらした、というのはやはり説得力に欠けるように思われる。