温暖化対策と負のコスト

マンキューが昨年12/30のエントリで紹介しているが、昨年末、ブルッキングス研究所のテッド・ガイヤー(Ted Gayer)がクルーグマンを軽く批判した論説に対し、Free Exchange*1デロングエズラ・クライン、そして当のクルーグマンが相次いで噛み付くという騒ぎがあった。

問題となったガイヤーの文章の一節は以下の通り。

Arguing in favor of cap-and-trade, Paul Krugman recently wrote that “cutting greenhouse gas emissions is affordable.” He reasons, correctly, that there will be cost savings stemming from the financial incentives for emission reductions provided by a cap-and-trade system relative to command-and-control. Cap-and-trade is relatively effective at keeping costs down to the extent that it relies on decentralized market forces. Once the cap is set, firms should have complete flexibility on how to meet their quota of emissions, whether through switching fuels, lowering production, investing in more fuel efficient equipment, or even paying other firms to reduce emissions.

But Krugman oversells the affordability claim by linking to a widely cited report by McKinsey & Company. The main point of the McKinsey study is provided in their Exhibit B, which illustrates a rather peculiar finding that there are a significant number of pollution abatement options that can be achieved at “negative cost.” This finding violates the basic principles of economics. If firms (or consumers) could reduce emissions at negative cost, then they would do so. To say otherwise is to say that they are willingly or ignorantly passing up profits.
(拙訳)
クルーグマンは最近、キャップ・アンド・トレードを支持する論陣を張る際に、「温暖化ガスを削除することは経済的に可能だ」と書いた*2。彼は、指示と管理の仕組みに比べると、キャップ・アンド・トレードの仕組みには排出を削除する金銭的なインセンティブがあり、それによって費用が節減されると正しくも指摘した。キャップ・アンド・トレードは、非中央集権的な市場の力に頼る分、比較的効率良くコストダウンを実現する。いったんキャップが設定されると、排出割り当てをどのように達成するかについては、企業に完全に裁量が委ねられる。燃料を切り替えるも良し、生産を縮小するも良し、燃料効率がより優れた設備に投資するも良し、他の企業の排出削減に対価を支払うのもまた良し、というわけだ。
しかし、クルーグマンが、自らの経済的に可能だという主張を、マッキンゼーの広く流布したレポートと結びつけたのは行き過ぎだ。マッキンゼーの研究の主要ポイントは、そのExhibit Bに示されているが、そこでは、「負のコスト」によって達成できる汚染軽減手段が数多く存在する、という少々風変わりな所見が図で示されている。この所見は経済学の基礎原理と矛盾する。企業(もしくは消費者)が負のコストで排出量を削減できるならば、彼らはそうするだろう。そうでないと言うことは、彼らが進んで、もしくは無知ゆえに、利益機会を見過ごしている、と言うのに等しい。


これに対しアベントは、実際にそうした利益機会が見過ごされることは良くある、と反論している。そうしたことが生じる理由として彼が挙げているのは、たとえば住宅に費用節減の投資をしても生存期間中に利益が回収できない可能性や、住宅価格にその費用節約投資効果が正しく反映されない可能性、および、初期投資に際しての資金制約、ならびに、人間ならではの優柔不断である。デロング、クライン、クルーグマンも、そうした機会が見過ごされることに関する経済学の研究が存在することをガイヤーは知らないのか、と批判している*3。デロングは、マッキンゼーのようなコンサルティング会社に企業がカネを払うのは、まさにそうした利益機会を教えてもらうためではないか、と書いた上で、ブルッキングス研究所は品質管理をしっかりすべき、と(例によって)辛辣な嫌味を飛ばしている。


こうした反論に対し、ガイヤーがすぐさま再反論した。そのほか、Environmental Economicsのジョン・ホワイトヘッドもガイヤー支持に回った(12/30エントリでは神々を怒らせる危険を冒してガイヤーを支持する、と書いたほか、12/31エントリでリンクしたこのコラムではより詳細にガイヤー支持の意見を述べている)。

ガイヤーは、デロングが言及したようなコンサルタントへの手数料も費用に含めたら、全体コストはやはりプラスに転じるのではないか、と指摘した。さらに、市場原理に沿わないことも起きるのだということをあまり強調すると、そもそも市場原理を利用したキャップ・アンド・トレードによる節約効果の主張と矛盾を来たすのではないか、という点も指摘している。たとえばアベントは、市場がバブル等で時折り価格を間違えるからといって市場が使いものにならないわけではない、と述べたが、負のコストを早々と市場の間違いと決め付けるのはいかがなものか、と批判している。
またホワイトヘッドは、費用が今発生するのに対し利益が将来もたらされるならば、個々の主観的な割引率によって損得の勘定が変わってくる、という点を指摘している。これはアベントが挙げた利益回収についての問題点は、割引率の話に帰着できることを指摘した格好になっている。



素人の傍目には、ガイヤーやホワイトヘッドの主張の方が理性的で分があるような気がする。論文嫁、というのは日本のネットの経済学の議論でも良く目にする言葉だが、その参照論文を基に、一般的な見解のどこが間違いかを論理立てて説明しない限り、傍目には反論の体をなしていないように思われる。ガイヤーが主張しているのは、コストがマイナスだ、と決め付ける前に、それが一見マイナスになる要因をもう少し考えてみるべきでは、ということであり、その点で実は反論者の立場と大差ないように思われる。

こと温暖化問題になると、どうもリベラル派は頭に血が上りやすくなり、ちょっとした批判も許せなくなるようだ。その点は、ホワイトヘッドも以下のように皮肉っている。

I’m always surprised at the intensity of the debate among economists who basically agree over their disagreements about the minutiae of the issue.
(拙訳)
基本的に同意見の経済学者同士が、些細な点での意見の相違について戦わせる議論の激しさにはいつも驚かされる。

*1:署名記事ではないが、デロング、クルーグマンはライアン・アベント(Ryan Avent)のものだとしているので、本エントリもそれに従って以降ではアベントの記事として言及する。

*2:邦訳はここここここ

*3:デロングが言及したのはGrossman and Stiglitz (1980), "On the Impossibility of Informationally-Efficient Markets," American Economic Review 70:3 (June), pp. 393-408 http://www.jstor.org/stable/1805228
クラインが言及したのは、サマーズがフィッシャー・ブラックに市場は合理的でないことを示すために書いたという未発表論文。ジャスティン・フォックスのThe Myth of the Rational Marketによると、その論文は、「馬鹿者は存在する。周りを見回せ。(THERE ARE IDIOTS. Look around.)」と言う言葉で始まっていたという
クルーグマンが言及したのは、 国際エネルギー機関(IEA)のこの本