マルクス経済学は戦闘中に行方不明?

拙ブログに松尾匡さんのコメントを頂いたから、というわけでもないのだが、ジョン・クイギンが表題のエントリを書いていたので、以下に拙訳でご紹介(Economist's View経由)。

金融危機は、当然ながら、経済思想家としてのカール・マルクスの評価を高めた。マルクスは、危機や恐慌を、理由は良く分からないが幸いにも短期間で済む自然均衡からの乖離ではなく、資本主義に内在する特徴として扱った最初の経済学者だった。
不幸にも、彼、ならびに後続の彼の学派の分析の大部分は、的外れな価値理論の研究に向けられた(原注1)。マルクスの危機の議論は、理論的に不可避かつ現実化しつつあると当時思われた利益率の下落というアイディアに専ら依存していた。しかし技術の進歩に伴い、利益率が下落し続ける必然性は失われ、実際もそうならなかった。マルクスには、もっと良い危機の理論を生み出したであろうアイディアが他にもあったが、体系的な理論と呼べるものは無かった。
そして、今回の危機において、マルクス経済学はほとんど戦闘中に行方不明になっているように思われる。私はあまり彼らの言論を目にしていないし、目にしたものも、分析という点では標準的な左派ケインジアンと大して変わらない。おそらく問題は、資本主義がとにかくこの危機を乗り切るだろう、と皆が思っていることにある。それは、危機がもっと深化して最終的にはシステム全体の革命的な転覆をもたらすという本来のマルクス主義の観点とは反するものだ。あるいは単に、私が彼らの然るべき言論をまだ目にしていないだけなのかもしれないが。
私のブログの読者がここを教えてくれた。確かに良い言説もあるが、前述したように、標準的な左派ケインジアンの分析と大差ない(原注2)。誰か今回の危機に関するいかにもマルクス主義的な分析のお勧めを知らないかい?


原注1:時間ができたら、この点についてはもっと長いエントリを書くつもり。簡単に言うと、価値理論の議論の基礎にあるアイディアは、生産物の売り上げは生産に投入したものの所有者(労働、資本、そして土地、という19世紀的分類)の間で分配されるので、産出価値の分け前を各グループの寄与度に応じて決める何か自然な方法があるはずだ、というものだ*1。これは基本的には平均価値に関する話である。というのは、グループ内の平均を集計すれば、そのグループの合計に等しくなるからである。しかし、1870年代の新古典派革命が示したように、価格は限界費用と限界代替率で決まるものであり、平均とは一致しない。価格理論の対抗者としての価値理論の座を維持しようとしたその後のマルクス主義者、オーストリア学派、スラッファ主義者の試みは――JBクラーク等の新古典派の限界生産性倫理の試みは言うまでも無く――不毛に終わった。


原注2:ただしこの論文を除く。これは、コクランとファーマにマルクス主義的な冗漫さを混ぜたもののように見える。

*1:追記:この点は最近日本で話題の株主至上主義云々という議論にも関係しそう。