サックス VS サマーズ

今日は、30日エントリの「4.サックス VS サマーズ」に記した以下の記事を紹介する。

Tiff in the Economists’ Temple (The Washington Post 1998/04/05)(リンク

まずは冒頭部の拙訳。

彼らは大学院時代に出会い、大抵の晩を大学のコンピュータセンターで机を並べて過ごした。やがて、彼らは同じ論文指導者のもとに付き、ロケット工学の数学を経済分析に応用する方法を示す論文を共同出版した。お互いのアパートで夕食を取りながら理論の細かい点について議論し、お互いの結婚式に出席した。そして1983年の同じ日に、ジェフ・サックスとラリー・サマーズは、ハーバードからテニュアを得た史上最も若い教授となった。

(この最初の一節を読む限り、出会ったその日から仲が悪かったわけではなく、むしろ最初は親しかったことがわかる。しかし、運命が二人の仲を切り裂いていく。)

とはいえ、この二人のスーパースター学者の野心が、象牙の塔や技術的な論文誌に留まるものではないことは、当時から明らかだった。


経済学のインディアナ・ジョーンズとも称されたジェフリー・D・サックスは、世界の開発途上国の経済顧問の第一人者となった。彼のアイディアは、中南米諸国の1980年代のハイパーインフレを抑え、債務危機を解決する一助となった。また、彼は、東欧諸国が共産主義から資本主義に移行するに当たって「ショック療法」を初めて適用した。


一方、ローレンス・H・サマーズは、クリントン政権の経済チームを知的な面で率いる役割に就いた。財務副長官として、財政赤字削減の隠れたヒーローであり、米国によるメキシコ救済の立役者であり、米国型資本主義を世界に広める疲れを知らない布教者であった。


しかし、今、歳を重ねた神童は、アジアを襲った経済危機を巡って衝突している。かつての暗黙の友好的ライバル関係は、経済政策の意見の違いだけではなく、各々の役割と野心の衝突によって、とげとげしいものに変わった。


公にお互いを批判することは避けているものの、講演や記事を通じて、あるいは狭い国際経済学の世界で代理人を通じて、二人は暗闘を繰り広げてきた。二人は、アジア経済危機について根本的に異なる解決策を提唱している。


IMFと共同で仕事をしているサマーズは、1180億ドルの救済プランを主導したが、それは、タイ、韓国、インドネシアに対し、金利引き上げ、財政赤字削減、市場開放、傷んだ銀行の閉鎖、クローニーキャピタリズムの一掃を要求するものだった。


ハーバード国際開発研究所の所長であるサックスは、その国際的な救済プランの主たる批判者となった。その主張は、サマーズらは、緊縮予算と政治的にリスクの高い改革を課すことにより、悪い状況を一層悪化させたというものだ。苦しんでいるアジア経済が本当に必要なのは、信頼を取り戻し対外負債を減らすための時間と現金なのだ、と彼は論じる。


この長年にわたる反目は、1995年にメキシコのペソ危機が始まった頃に形作られた。将来このような救済がまた必要となる機会を減らすため、サックスは、米国内で債務企業が行なうのと同様に、債務国が債権者と破産手続きができるスキームを提唱した。しかし、そのアイディアはウォールストリート、大手銀行、そして財務省のサマーズに猛反対され、サマーズは西側諸国の金融大臣にそのアイディアに乗らないようロビー活動を行なった。

30日エントリの「6.サマーズ&サックス&スティグリッツ 日本への提言」で紹介したように、不況脱出に苦しむ日本に対し、サマーズが構造改革派的な要求をしたのに対し(そのためマッカーサーの再来と揶揄された)、サックスはリフレ派的な提案をしている。この二人の提案の対照性も、上記の延長線上にあるわけだ。


記事では、こうした路線の違いがある会合で火を噴いた様子を紹介している。

この意見の対立はケンブリッジにまで及んだが、それが最も明確に現れたのが、3月前半にアジア危機をテーマにMITのポール・クルーグマンが開催した内輪の討論会においてだった。国際経済学の著名な学者の多くが出席したが、その中にはサックスと、今やIMFのナンバー2になっているMITの伝説的な教授スタンリー・フィッシャーが含まれていた。サマーズはワシントンにいて出席しなかった。


出席した複数のメンバーによると、サックスは、アジア危機への対応で何が間違っていたかを雄弁に説明してセッションの口火を切った。しかし、ハーバードおよび財務省でのサマーズの部下であるJ・ブラッドフォード・デロングにすぐに反撃され、彼の筋道の通った内々の分析と、公の場での挑発的な批判との対比を衝かれた。


サックスはそこに矛盾は無いことを説明しようとした。しかしすぐに、普段は温厚な紳士として知られるフィッシャーに遮られた。


サックスが5回にわたってフィッシャーの能力と誠実さに大っぴらに疑問を呈した時、フィッシャーは怒って「それが本当でないことは分かっているだろう」と首を真っ赤にして叫んだとされる。


「かなり白熱したな」とサックスは回想する。フィッシャーは「あまりに不愉快な」出来事だったとして、それ以上その件について語ることを拒否した。


「狭い世界だから、こうした緊張関係は目立つものなんだ」とクルーグマンは後に語った。

会議を主催したクルーグマンもいい面の皮でしたな。


記事は続けて、サックスとサマーズにお互いについて直接インタビューした時のことを紹介している。さすがに良い歳をした大人なので、「助言と友情に感謝する。そのアイディアは我々の仕事にも影響を与えた」(サマーズ→サックス)とか、「素晴らしい才能の持ち主で優れた仕事を成し遂げた」(サックス→サマーズ)とかいう前置きは付けたものの、「大規模な国際機関や財務省の改革に伴う困難や、どんな国際的な救済措置にも付きまとう政治的および経済的なトレードオフの危うさを理解しようとしない」(サマーズ→サックス)、「政治的現実や、今や彼が統括する『根本的に欠陥のある』組織に対する『不幸な妥協』」(サックス→サマーズ)といった批判が、明示的もしくは暗示的に返答に現れたとのことである。


また、記事は、二人の対立は、お互いがいろんな点でよく似ていることも原因ではないか、と分析している。友人や同僚は、二人のことを、疲れを知らず多作で、頭の回転が速く写真のような記憶力の持ち主、と描写したとのこと。また、二人とも数学と文筆に優れている半面、強情で摩擦を起こしやすく、時には嫌になるほど自信家だとの由。
(なお、記者は、サックスの方がよりいらちだが、よりチャーミングだという感想を述べている。)


このあと記事は、2人のアジア危機以前の活躍を振り返っている。以下はそのうちのサックスに関する部分の抄訳。

サックスは中南米においてサマーズに先んじて自らの経済学を実践する機会を得て、教科書的な自由主義政策を推進した。曰く、紙幣発行の自制、貿易や海外からの投資の自由化、規制撤廃。しかし同時に銀行や国際機関に債務免除を要求し、財務省IMF等から嫌われた。彼のその考えが、危険な過激思想という扱いから一転して常識として受け入れられるまでに、中南米地域の失われた10年という時間が必要だった。


1980年代終わりには東欧諸国での共産主義から資本主義への移行に当って、段階的な移行を主張するIMFを押し切り、ポーランドでは連帯の指導者を直接説得するなどして、「ショック療法」を適用させた。それは、西側の債務免除と多額の援助もあり、ポーランドを初めとした東欧各国で概ね成功裡に終わった。


しかし、彼が最大の勝利を収めることを目論んだロシアでは失敗に終わった。一つには、西側からの援助が不十分だったためであり、もう一つは、サックスが最初に手を組んだショック療法支持者が漸進主義者に取って代わられたためである。いらちなサックスは顔を真っ赤にしてさっさと引き上げ、米国とIMFサボタージュしたと非難した。ある米政府高官は、ロシアに必要なのは「セラピー(療法)をより多く、ショックはより少なく」だ、と応じた。

スティグリッツ例の論文で、ロシアにおいて失敗に終わったショック療法の責任を米財務省IMFに帰しているが、実際は逆だったわけだ。また、面白いことに、スティグリッツはロシアでのショック療法の失敗を口を極めて非難するが、その際、肝心のサックスの名前を槍玉に上げることは決してない。例の論文でも、当時はまだ表舞台に出ていなかったサマーズをわら人形に使っている*1。ちなみに、昨日のエントリで紹介した記事の注釈には、「スティグリッツとサックスは共通の敵IMFを前にして不可侵条約を結んでいた。」という記述がある*2


本記事では、サックスの師だったドーンブッシュの「ジェフのスタイルは派手だが、常に生産的かどうかはわからない」という言葉でサックスのエピソードを締めくくっている。*3


続いてサマーズが米政権内で階段を昇り詰めていく過程を紹介しているが、最初は

当時のロイド・ベンツェン長官の記者ブリーフィングにおいて、長官のコメントの後、彼が言いたかったと思われることを、サマーズが自分の言葉で説明しなおすことがあったが、その時のことを回想するのは報道記者たちのお気に入りだ。この生意気な財務次官の言葉を聞きながら、ベンツェンは歯を食いしばっていたものだ。

と絵に描いたようなKYだったサマーズも、

だがやがて、ワシントンで成功するには、議論での勝利よりも味方を手に入れることの方が大事だ、ということにサマーズは気づいた。
・・・
「誰も予想していなかったけど、サマーズはチームプレイヤーとして上手に行動し、政治の舞台でうまく立ち回ることができるようになった。」と第一期クリントン政権でCEAおよびNECを率いたローラ・ダンドリア・タイソンは言う。「彼は序列にとても敏感だった。ボブ(ルービン)やアラン(グリーンスパン)に同意しない場合でも、彼らが議論を支配するのを黙認することを覚えたの。」
ある古株は、サマーズは、会議の予定を聞いたとき、何が議題かよりも誰が出席するかを気にする学者としては稀有な存在だ、と言う。

(最後の点については、確かディルバートでもPHBが同じようなことを得々とディルバートに言って聞かせる回があったような…)


記事は、このサマーズの成功を、彼の師であるフェルドシュタインの失敗(レーガン政権でCEA議長を務めたが、減税が財政赤字をもたらすことを大統領に納得させることに失敗し、2年でワシントンから引き揚げた)と対比させている。この時、サマーズも、フェルドシュタインの若きスタッフとして、政治の駆け引きを垣間見たわけだ。


記事は、メキシコ救済時に見せた傲慢さ*4が影を潜めたサマーズが、ルービン長官の後継者になるだろうと予測しているが、この予測は当たることになる。


最後はケンブリッジに戻ったサックスに再び焦点を当て、「自分は組織の人間になれないことは確かだ」という彼の言葉で記事をしめくくっている。

*1:該当部分の引用:「1998 年半ば、まもなくロバート・ルービンの後任の財務長官に指名されることになるサマーズは、ロシアの民営化推進の親玉アナトリー・チュバイアスといっしょに公共の場に現れるということをした。こうすることで、アメリカはロシアの国民を窮乏させているまさにその勢力と肩を並べて見せたわけだ。」 −−1998年半ばはサックスがロシアの経済顧問の座を去って4年以上後のこと。

*2:この注釈では、2000年4月の世銀主催のカンファレンスにサックスを基調講演者として招いたことで、サマーズが総裁ウォルフェンソンに対し、この反グローバリズム運動が盛り上がっている時期に敵対的批判者を基調講演に招くとは何事か、と激怒したというエピソードが記されている。実際に招待を実行したのは、辞任前のスティグリッツと、スロバキア出身の世銀スタッフでサックスと親しかったPleskovicだったとのこと。

*3:唐突だが、このサックス評で思い出されるのは、同世代のより有名なライバル関係についての次の評:「Bill Gates has no style; Steve Jobs has nothing but style.」(出所ここで引用が読める。翻訳は下記)。ただ、マンキューがサマーズとゲイツの共通性を指摘したこともあるので、2つのライバル関係をアナロジカルに捉えるのもあながち的外れではないかも。

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*4:ちなみに日本のwikipediaにも引用されている「Larry Summers is to humility what Madonna is to chastity.」という有名な言葉は、1995年当時にウォールストリートジャーナルのコラムに書かれたもの。
 cf) ここここ