一般向け著作と科学的著作の違い

引き続きハモンドフリードマンのインタビューから、原因という言葉の使い方に関するやり取りを引用してみる。一般向け著作ではその言葉を使っているではないか、というハモンドの突っ込みに対しフリードマンは、その方が分かりやすいからね、とかわしている。

J.D.H. You see problems in framing economic issues such as the Keynesian–monetarist debate as disputes about the causal role of money. For the most part you have not used the word ‘cause’ in your writings. Yet you have used it on occasion in your ‘popular’ writings. For example your 1963 lectures for the [Indian] Council for Economic Education are entitled Inflation: Causes and Consequences, and chapter 9 in Free to Choose includes a section entitled ‘The Proximate Cause of Inflation’. Does this indicate an essential rift between your ‘scientific’ economics and your ‘popular’ economics?
M.F. It isn’t a rift between my scientific economics and my popular economics. It’s the fact that I’m addressing a different audience. The circumlocutions that may be appropriate for a scientific audience will lose you your popular audience. And in general, you have a different aim in view when you’re writing for a scientific than for a popular audience. For a scientific audience, you are really part of an ongoing process of cumulative knowledge, you hope, in which the other side has built on your work, or will add to it, or will subtract from it, or will test it, and so on. In respect to popular writing, let’s say that one is a wholesale activity and the other is a retail activity, and in popular writing you’re trying to convey certain ideas to people, and you don’t want excessive qualifications to get in the way. I think there are two equal problems in popular writing. One is oversimplification and the other is overcomplexity. You’ve got to somehow steer between those. I think people who say things that are wrong on the grounds that they can only get a simple idea across, and while this simple idea is wrong fundamentally, it’s the right one for this purpose, are doing a great injustice to themselves and to their audience. People can and will understand a fairly sophisticated argument if it’s presented simply, in clear language. And I think that the whole trick in popular writing is to try to find the proper balance between them. And I’m sure that explains why I use the word cause because it’s a much simpler term than to talk about necessary and sufficient, or about determined by, or dependent on, or approximately dependent on. Now proximate cause is obviously an attempt to have my cake and eat it too.
(拙訳)

ハモンド
ケインジアンマネタリストの論争といった経済学の問題を、貨幣が原因として果たす役割に関する議論、という枠組みで捉えることには問題がある、と貴兄は考えておられます。著作の大部分で貴兄は「原因」という言葉を使われていません。しかし「一般向け」著作では時折り使われています。例えば1963年の[インド]経済教育委員会向け講演は「インフレ:原因と結果」と題されていました*1。また、「選択の自由」の9章には、「インフレのおおよその原因」と題された節があります。これは貴兄の「科学的」経済学と「一般向け」経済学の間の本質的な断層を示すものでしょうか?
フリードマン
それは私の「科学的」経済学と「一般向け」経済学の間の断層というものではありません。異なる読者層向けに書いている、という話です。科学的著作の読者には適切な回りくどい表現も、一般の読者からはそっぽを向かれてしまうでしょう。また通常、科学的著作の読者向けに書いている時には、一般向けに書いている時とは異なる目的が念頭にあります。科学的著作を書いている時には、読み手がその研究に基づいて新たな研究を行ったり、追加研究を行ったり、一部を削ったり、検証したりする、という知識の集積過程の一部に自分がなっていることを期待しています。一般向け著作について言えば、科学的著作がいわば卸売業務なのに対し、こちらは小売業務で、ある考えを人々に伝えることが目的となります。その際、過剰な注釈で伝えたいことを邪魔されたくない、と考えます。一般向け著作では2つの問題が同程度に存在します。一つは過度の単純化で、もう一つは過度の複雑化です。その合間を何とか縫って行く必要があります。単純なことしか人々には伝わらないので、その単純な考えが根本的に間違っているにしても、人々に言いたいことを伝えるという目的に照らせば正しいのだ、という理屈に基づいて間違ったことを言う人がいます。そうした人は、自身と聴衆に対し、大きく公正を欠いたことをしている、と思います。簡明な言葉で表現されていれば、人々にはかなり精緻な議論を理解する意思と能力があります。一般向け著作で苦労するところは、とにかく両者のバランスを見つけることにあるのです。それらの著作で原因という言葉を使っているのは、間違いなくそれが理由です。必要条件と十分条件、何々によって決定される、何々に依存する、何々に概ね依存する、といった言い方よりもずっと簡単な言葉だからです。おおよその原因、という言い方は、両者の良いとこ取りを狙ったものです。


また、この件は分析の構造の話に及ぶものではなく、意味論的な話に過ぎない、と断っている。

J.D.H. If avoiding the word ‘cause’ in your scientific writings indicates that the analysis is not causal in its structure, what then takes the place of causality in the structure of the theory? Does this not leave you open to the criticism that monetarism or the quantity theory is based on nothing more than correlation between money and the price level or nominal income?
M.F. No, I don’t think that—I don’t know what it means to say that the analysis is not causal in its structure. I just don’t understand the language. The whole purpose of an analysis is to try to understand real phenomena in such a way that you can predict what’s going to happen. If you want to call it causal—you know it seems to me that’s a purely semantic discussion, and I really find it very hard to get involved in the semantic discussions.
J.D.H. So your avoiding the word cause is really a semantic choice? …
M.F. Absolutely, absolutely.
J.D.H. … and indicates nothing beyond that.
M.F. Nothing.
(拙訳)

ハモンド
科学的著作で「原因」という言葉を避けておられるのが、分析の構造が因果関係に関するものではないことの表れだとしますと、理論の構造において因果関係の代わりとなるのは何でしょうか? その場合、マネタリズムや貨幣数量説は、貨幣と物価水準ないし名目所得との相関に基づいているに過ぎない、という批判が当たっていることになるのではないでしょうか?
フリードマン
いや、そうは思いません。分析の構造が因果関係に関するものではない、ということが何を意味しているのか分かりません。その言葉が全く理解できないのです。分析の目的は、何が起きるかを予測するできるように実際の現象を理解しようとする、ということにほかなりません。それを因果関係と呼びたい、というのは、意味論的な議論に過ぎないように思われます。私は意味論的な議論に巻き込まれたくはありません。
ハモンド
ということは、原因という言葉を使われないのは、実は意味論的な選択であると?…
フリードマン
まったくもってその通り。
ハモンド
…そしてそれ以上の意味はないということですね。
フリードマン
まったくありません。

この辺りのやり取りは、因果関係の解釈という観点から書いた初のフリードマン研究論文が当のフリードマンに批判され、ではフリードマンが因果関係についてどのような考えを持っているのか突き止めてやろうと勢い込んでインタビューに臨んだハモンドが、いやとにかく「原因」という言葉がイメージするところが嫌いなんだよ、と言われて肩透かしを食らった感があるようにも思われる。

*1:cf. ここ