錨と不安

29日エントリで紹介した議論のフォローアップエントリをクルーグマン書いている*1。そこで彼は、前のエントリで言及した“インフレ期待の「固定化」(“anchored” inflation expectations)”を取り上げ、その理論の欠点について論じている。

Now, the usual response from model-oriented public officials and research staff at policy institutions is to say that what they work with now is a Phillips curve with “anchored” expectations. The idea is that price- and wage-setters now act as if they expect policymakers to hit their 2 percent target, and don’t change their expectations in the face of recent experience. Operationally, of course, such a curve looks just like the old, pre-NAIRU Phillips curves people estimated in the 1960s. And the truth is that such curves fit pretty well on data since 1990.
But this kind of anchoring argument, I would argue, leaves us with some disturbing questions, both conceptual and practical.
(拙訳)
この点[=デフレスパイラルが起きなかったこと]についての政策当局に在籍しているモデル指向の官僚や研究者からの一般的な反応は、彼らは今は「固定化」されたインフレ期待を伴うフィリップス曲線を用いている、というものだ。そこでの理論は、価格や賃金を決める人は今や、政策当局者が2%目標を達成することを恰も期待しているかのように行動しており、近年のような出来事があってもその期待を変えない、というものである。運用の上では、そうした曲線は、1960年代に推計されていたNAIRU以前の昔のフィリップス曲線と当然ながらまったく同じ形をしている。そして実際のところ、そうした曲線は1990年以降のデータに非常に良く当てはまるのだ*2
しかしこうした固定化の議論は、概念および実務の両面において不安を呼び起こす疑問を提起する、と私は論じたい。


ここでクルーグマンが挙げた概念面の疑問は、固定化が生じた理由とその持続性である。インフレ期待の固定化は中銀への信頼によって生じたのか、それとも単に低インフレの結果なのか――インフレ率が一桁の小さな数字に収まるようになったので、人々がその変動に注意を払わなくなったのか――、とクルーグマンは問う。そしてインフレ率が2%ではなく継続的に1%もしくは3%になったら、その固定化効果は無くなってしまうのか、と問うている。


クルーグマンが挙げた実務面の疑問は、固定化期待仮説からは、生産能力と政策について従来の理論とはかなり違う話が出てくる、というものである。この点について彼は、本ブログの12/1エントリで紹介した試算をユーロ圏について繰り返している。即ち、ユーロ圏では昔ながらの単純なフィリップス曲線が驚くほど良く当てはまるが、その結果をまともに受け止めるならば、ECBがインフレ率を2%に戻すというのはかなり困難な挑戦になる、と彼は言う。というのは、現在のユーロ圏のコアインフレ率は約1%であるが、フィリップス曲線の傾きはブランシャールらが米国について推計した値とほぼ同じ0.25であるため、2%に戻るためには失業率を4%ポイントも下げる必要があることになるからである。そして、ユーロ圏におけるオークン則の係数も米国とほぼ同じ2程度であるため、失業率を4%ポイント下げるためには実質GDPを8%ポイント上げる必要があり、そのことからすると、現在のユーロ圏の生産ギャップは8%ということになる、とクルーグマンは指摘する。
この試算を受けてクルーグマンは、この結果を真面目に受け止めるべきか、もし真面目に受け止めるべきではないならばその理由は何か、と問うてエントリを結んでいる。

*1:そのエントリのタイトルは「Anchors Away (Slightly Wonkish)」と題されているが、これはもちろんAnchors Aweigh(錨を上げて)のもじりだろう。

*2:ここでクルーグマンは本ブログの11/18エントリで紹介した論文のIMF版にリンクしている。