FRBは量的緩和を逆にやっていた?

というエントリをマイク・コンツァルが書いている
以下はその冒頭部。

QE3 is over. Economists will debate the significance of it for some time to come. What sticks out to me now is that it might have been entirely backwards: what if the Fed had set the price instead of the quantity?

To put this in context for those who don’t know the background, let’s talk about carbon cooking the planet. Going back to Weitzman in the 1970s (nice summary by E. Glen Weyl), economists have focused on the relative tradeoff of price versus quantity regulations. We could regulate carbon by changing the price, say through carbon taxes. We could also regulate it by changing the quantity, say by capping the amount of carbon in the air. In theory, these two choices have identical outcomes. But, of course, they don't. It depends on the risk involved in slight deviations from the goal. If carbon above a certain level is very costly to society, then it’s better to target the quantity rather than the price, hence setting a cap on carbon (and trading it) rather than just taxing it.
(拙訳)
QE3は終了した。経済学者たちはこの後暫くその重要性について議論することだろう。私が今引っ掛かっているのは、量的緩和は完全に逆方向のことをやっていたのではないか、ということだ。もしFRBが量ではなく価格を設定していたらどうだっただろう?
背景を知らない人のために解説しておくと、温暖化問題のことを考えてみよう。1970年代のワイツマンの研究以来(グレン・ワイルの素晴らしい要約はこちら*1、経済学者は価格統制と量的統制の相対的なトレードオフについて考えてきた。我々は、例えば炭素税のような手段により、価格を変化させることを通じて炭素を統制することができる。あるいは、例えば大気中の炭素量に上限を設けることにより、量の変化を通じて統制することもできる。理論的には、この2つの選択肢は同一の結果をもたらす。しかしもちろん、そうはならない。目標から少し乖離した際のリスク次第で結果は変わる。もしある水準以上の炭素は社会にとって非常に高くつくものならば、価格よりは量を目標にした方が良い。即ち、炭素のキャップ(アンド・トレード)を導入する方が、単に課税するよりも望ましい*2


一方、金融政策についてFRBは、「長期国債を毎月450億ドル購入する」と言う代わりに、「10年物長期国債の利回りを年内は1.5%とすることを目標とする」と言うべきではなかったか、とコンツァルは問題提起する。短期金利が政策目標として機能していた時には、まさにそうしていたではないか、とコンツァルは指摘する。実際、ジョセフ・ギャニオンは不動産担保金利について同様の提案かつてしたことがあった、との由。
そうすることのメリットとして、コンツァルは以下の3点を挙げる:

  1. FRBが何をやろうとしているかが遥かに分かりやすくなる。
    • テーパリングで何がどうなるのかは今一つ不明で、ストックが問題なのかフローが問題なのかも分からないが、特定の長期金利を目標とすれば、コミュニケーションは各時点で完全に明確化する。
  2. 実施も容易
    • 何兆円という数字を耳にすると、人々は資産交換ではなく財政赤字を連想してしまう。金利に話を集中すれば、量的緩和に関する人々の懸念も和らぐ。
    • 市場がこの件でFRBに対抗するとは考えにくいので、実際の購入額も少なくて済むだろう。
  3. 長期停滞などのせいで低金利が普通の世界に入るならば、手段は定式化する必要がある
    • 過去数年のギクシャクしたFRBの政策は反面教師とすべき。

ニューヨーク市立大学のJW Masonのブログ記事によると、長期停滞論で有名なアルヴィン・ハンセンも、1955年の論文で、金利の期間構造全体に亘る介入を当然視していたという。ハンセンはケインズの一般理論から同趣旨の文章の援用を行ったとの由*3


この提案に対する反論として、通常時ならば、短期金利操作で十分、という経済学的議論が成り立つだろうが、ゼロ金利下限と長期間の低金利の時代にはそれは成り立たない、とコンツァルは言う。そして、実は問題は政治的なものだ、として以下の2点を指摘する。

  1. FRBが、長期金利を設定することによって経済を計画している、という非難を浴びることになる
    • FRBが量を調節しているのは、事実上この非難を避けるため。だが技術的には両者は同じ政策であり、ただ片方がより不透明であるために政治的カバーを与えると共に、市場にとって分かりにくいものとなっている。
  2. FRB金利に対する影響力を大っぴらに認めたら、不況を左右する力も認めることになる
    • グレタ・クリップナー著「Capitalizing on Crisis: The Political Origins of the Rise of Finance」によると、1982年にボストン連銀のフランク・モリスは、マネタリズム政策から金利政策に戻ることについて、M1目標によって隠されていた金利への直接的な責任が生じることを理由に反対したという。量的目標に特化していれば経済を左右する責任を負わなくてもよいと彼は考えたとの由。
    • しかし当時も今もFRBは経済を左右する力を持っている。FRBには使える政策手段があり、かつ、それをまた使う必要が出てくる時が来るだろう。その時に正しい手段を使うようにしておくのは大事なこと。

この記事のコメント欄では、貴君も僅かながら一歩市場マネタリストに近づいたね、と冷やかすと同時に、金利は金融政策ではない、という市場マネタリストの持論を提起したコメントが書かれている。また、日銀は貴君の提示する政策に乗り出したから、これからどうなるか見物、というコメントも書かれている(日銀は別に金利目標を打ち出してはいないので、こちらのコメントは的外れな気がするが…)。

*1:cf. 本ブログの関連エントリ

*2:cf. 目標から少し乖離した際の社会へのリスクが非常に高い別の例

*3:山形浩生さんの訳から該当箇所を引用すると:
中央銀行が今のように、短期国債を一つの公定歩合で売買するというのではなく、あらゆる満期期間の優良証券を表示価格で売買するという複雑なオファーこそが、金融管理技術において実施できる、最も重要な実務上の改善となります。