敬意と個性と礼儀と文化(と宗教)

昨日に続き、ノアピニオン氏の提唱する敬意絡みのネタをもう一つ。タイラー・コーエンが、日本ではお互いに敬意を払うというノアピニオン氏の見方に疑問を呈し、米国の方がその点では優れているというエントリを上げたが邦訳)、同エントリの最初のコメントでは、逆にコーエンの見方に疑問が呈されている:

The mere fact that Cowen automatically thinks that Japanese women are not respected suggests that he confuses status with respect. One can view someone as being in a subordinate position and yet acknowledge the role they provide and respect them for fulfilling their duties correctly. I think that this kind of respect is easier to give all around in homogeneous, hierarchical societies with clear roles for all. Conversely, in the U.S.A. one can insist — often at the risk of a lawsuit — that women be treated equally or even given preference before the law — without engendering respect. Men who dislike modern teen behavior or who think women should not be treated equally in the workforce will grudgingly make room for them but not respect them. Similarly, women will resent this feeling even if they succeed and not reciprocate respect. The greater the need for individuality and the less anchored norms and expectations are to long standing tradition, the more room for conflict and resentment and hence a general disintegration in respect. Expectations are key. For example, you can scream about fat pride all day and night but many will continue to view the heavily obese as undeserving of respect and worthy of condescension.
(拙訳)
コーエンが反射的に日本女性に敬意が払われていないと思ったということは、彼が地位と敬意を混同していることを端的に物語っている。誰かについて、従属的地位にあると見做しつつも、その提供する役割を認め、その義務が正しく果たされていることに敬意を払うことは可能だ。全員に明確な役割が存在する均質的な縦社会では、そうした敬意を皆に払うのはより容易だ、と私は思う。逆に米国では、敬意抜きで女性が法によって平等に扱われる、ないし、優先的に扱われるべき、という主張をすることが――訴えられる危険を覚悟の上だが――可能だ。いまどきの十代の振る舞いを嫌う男性や、職場で女性が平等に扱われるべきではないと考える男性は、彼らのために渋々場所を空けるだろうが、彼らに敬意を払うことはない。同様に、女性の側も男性側のそうした感覚に憤慨し、相手に敬意を払うことは無い。個性がより求められるようになり、規範や期待が長らく続いた伝統の括りから離れるに連れ、紛争や憤慨の生まれる余地が大きくなり、敬意も全般的に失われていく。期待が重要なのだ。例えば、肥満者の尊厳を日がな一日がなり立てることは可能だが、多くの人々は極端な肥満者は敬意を払うに値せず、侮蔑に値すると考え続けるだろう。


このコメントを読んで小生が想起したのは、この小説の以下の一節。

前(ぜん)申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中(うち)で喧嘩(けんか)を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多(めった)に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫(いちごう)も犯(おか)されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛(はんもう)でも人を侵(おか)してやろうと、弱いところは無理にも拡(ひろ)げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛(まぎ)れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門(いっけいちもん)ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘(わがまま)を張れるだけ張らなければ損になるから勢(いきお)い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子(むすこ)がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日(こんにち)に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。

コーエンは拡大家族の形での敬意が日本では欠けていると書いたが、上のコメンターはまさにそうした敬意が日本の特徴であるとし、この百年以上前の小説ではそれが欧米に倣う形で崩壊すると風刺的に予言していたのが皮肉と言えば皮肉である。


一方、ノアピニオン氏は敬意と礼儀を混同しているのではないか、と指摘するとともに、問題を文化や宗教に絡めたコメントも見られた。

As others have pointed out, “respect” is reflexive, sure in the eye-of-the-beholder but typically “earned”. Noah confuses it with politeness and fails to acknowledge that it is the cultural frameworks that help to achieve the example he uses — Japan — and that will lead to the “type of respect” he yearns for — the very same frameworks that those typically labeled “liberals” or “progressives” have managed to erode from state sponsored institutions over the years.
Indeed, the lines the media attempts to segment the ‘Rs’ and ‘Ds’ get blurred more and more daily. I’m not advocating we re-institute state sponsored, religious based frameworks but perhaps just a nod to a certain set of their fundamentals, and instituting under another guise would do.
(拙訳)
他の人が指摘したように、「敬意」は相互的なものであり、確かに主観的なものであるが、通常は「獲得する」ものである。ノアはそれを礼儀正しさと混同し、彼が持ち出した事例――日本――での実現を手助けし、彼が切望する種類の敬意をもたらすのは文化的枠組みであることを見逃している。そうした文化的枠組みは、まさに「リベラル」とか「進歩派」と呼ばれる人々が、国支援の制度から長年に亘って削り取ってきたものである。
実際のところ、マスコミが「共和党」と「民主党」で区分けしようとする線引きはどんどん曖昧になってきている。私は、国が支援する宗教を基盤とした枠組みを再導入せよ、と主張しているわけではない。おそらく、そうした考え方の基本的な部分を幾分か認め、別の装いの下で導入するので十分だろう。

このコメンターがここで槍玉に挙げているのはクリスマスを軽視する動きであり、上記引用部の前段を含めたコメント全体の内容から察すると熱心なキリスト教徒のようだが、上記引用部の文面だけを見ると日本の靖国支持派のレトリックにそのまま転用できそうなのが興味深いといえば興味深い。