政策オプションとしてのヘリコプターマネー

についてのアデア・ターナーマイケル・ウッドフォードの論争がvoxeuでまとめられている(H/T mainly macro)。ターナーがヘリコプターマネーを政策として検討すべき、と訴える一方で、ウッドフォードが懐疑論を展開している。以下は両者の主張の概要。

ウッドフォード
  • ヘリコプターマネーも通常の量的緩和も、政府の財政および税政策が同じで、恒久的なマネタリーベースの増分が同じならば、完全予見における均衡は同一となる。
  • 両者の効果が異なるとすれば、完全予見の前提が成り立たず、一般市民の受け止め方が違ってくることが原因である。
    • 2001-2006年の日本の量的緩和では、人々はマネタリーベースの増加が恒久的なものだとは信じなかったし、現在の英米の政策当局者も中央銀行のバランスシートの拡張が恒久的なものではないと強調している。そうした状況では、需要が増加すべき理由は無くなる。
    • しかもヘリコプターマネーでは、使えるお金が人々の手元に届いており、それによる将来の状況の変化云々といった小難しいことに思いを巡らせたり理解したりしなくても、自分の支出が増やせると信じることができる。量的緩和ではそうはいかない。
  • とは言うものの、国債を財源とした所得移転という財政政策と、中央銀行の名目GDP目標政策との組み合わせで、ヘリコプターマネーと同様の効果が達成できる、とウッドフォード自身は考えている。その政策においても、一般市民が洗練された予想を形成することを特に前提する必要は無く、かつ、彼らの手元に使えるお金が届いている。また、中央銀行がばら撒きの主体とはならないので、伝統的な財政金融の役割分担が守られる。
ターナー
  • ウッドフォードの見解に同意するものの、その提案する政策は十分に手元がオープンでは無く、個人や企業が将来の政府債務について要らぬ心配をする可能性を残している。そのため、名目GDP目標を達成するために、金融の不安定性を惹起するに至るまで量的緩和を積み増す必要性が出てくる危険性がある。
  • 自分の問題意識は、中央銀行の独立性および財政規律を維持しつつももっとオープンな形の政策が実施できるかどうか、という点にあり、それは可能だ、と考えている。
  • ヘリコプターマネーが伝統的な財政金融の役割分担を崩すというウッドフォードの懸念も分かるが、それについては防護策が立てられると考えている。また、ウッドフォードの提案する政策においても、名目GDP目標を達成するのに十分な額以上の国債を財政当局が発行してしまう可能性がある。
  • 自分の提案するあからさまな金融ファイナンス政策では、逆に、ファイナンスする額は予め名目GDP目標に見合う額として規定されている。その規定は独立した中央銀行によって行われるので、他の金融政策手段の決定過程と変わるところは無い。


ターナーのヘリコプターマネー論についてはこちらも参照(ただしこの時はまだFSA長官という要職にあったためか、発言を後で否定するなど観測気球を打ち上げたというニュアンスが濃い)。基本的には、小生がここで考えたのと同様の方向性を検討しているように思われる。