一昨年、アダム・ポーゼンが黒澤映画で日本経済の苦難を読み解くという試みを行ったが*1、昨年10月にはアンドリュー・ローが書評論文の冒頭で今回の金融危機を羅生門に喩えている(Mostly Economics経由のMarginal Revolution経由)*2。
以下はその拙訳。
黒澤明の1950年の古典的名作「羅生門」では、暴行と殺人の申し立てに関して、その犯罪に様々な形で関わった4人がお互いに矛盾した描写を行う。異なる証言者が述べる一連の事実――女性の恥辱とその夫の死――は比較的明確であるにも関わらず、その事実の解釈はまったくもって明確では無い。映画が終わった時、我々の元には相互に矛盾する物語が残され、いずれの物語も我々のカタルシスや納得感への欲求に完全に応えるものではない。この映画は1952年のアカデミー外国語映画賞*3を含め数多くの賞を受賞したが、米国での商業的成功はならず、2010年4月時点で米国での総収益は96,568ドルである*4。これは驚くに値しない。88分の生々しい物語描写を聞かされた挙句、犯人も動機も分からないまま取り残されたいと誰が思うだろう?
それから60年後、大恐慌以来最悪の金融危機の被害状況を探るに際して、複数の真実という黒澤のメッセージほど意味を持つものはない。金融危機調査委員会――両党派の10人の専門家からなる権威ある委員会で、召還権を持ち、18ヶ月間の審議を重ね、700人以上の証人に取材し、19日間の公聴会を開いた――でさえ、3つの異なる結論をその最終報告書で提示している。明らかに、これは複雑な話なのだ。
それがどれほど複雑になり得るのかを示すため、危機に関する世間知の一部となった以下の「事実」を考えてみよう:
- 効率的市場仮説の盲信が投資家を惑わせ、証券化された債務の価格付けが間違っており不動産バブルが弾けるかもしれないという可能性を無視させた。
- ウォール街の報酬契約が長期のインセンティブよりも短期の取引収益に重点を置きすぎていた。また、CEOは自分の金ではなく他人の金で賭けを行っていたため、過剰なリスクを取った。
- 米国証券取引委員会(SEC)の規則の改正のため、投資銀行は危機に至るまでの数年間にレバレッジを大きく増大させた。
これらの主張はそれぞれ完全にもっともらしく思われ、特に2007-2009年の出来事に照らすとそう思われるが、実証的証拠はそれほど明確では無い。
なお、その3つの「事実」に反する証拠としてローは、
- 同一格付けの普通債よりもCDOやモーゲージ関係の債券の利回りは高かった。
- CEOの株式やオプションの保有額は年間報酬の8倍に上った。
- ゴールドマン、メリル、リーマンは2006年よりも1998年の方がレバレッジが高かった。また、SECの規則改正はレバレッジ規制に何ら影響しなかった*5。
を挙げている。