需要不足以外の失業要因を求める人たち

ラジャンがProject Syndicateコラムで、現在の米国の失業率のうち住宅バブルの崩壊によって生じた構造的要因を3%ポイントと見積もり、物議を醸した。


問題だったのは、ラジャンはその見積もりをシカゴ大の同僚のErik Hurstらの研究から引いたのだが、Hurst自身がその見積もりを否定したことにある。


ラジャンのProject Syndicateコラムをマンキューがブログで引用しているが、その追記で、Hurstからマンキューに送られたeメールが掲載されている。それによると、Hurstらはあくまでもネバダアリゾナのような高失業率の州における構造的要因によるものであると見積もったのであり、ラジャンの言うような全米ベースでの構造的要因では無いとのことである。また、まだ初期段階の研究がラジャンにより言及され、その誤った言及がマンキューブログに引用されたことにより、数多くの問い合わせを受ける羽目になった、という苦情めいたことも書かれている。


なお、ラジャン自身も自ブログで訂正を出している。ただ、そこで、彼独自の目の子の見積もりに基づき、構造的要因は全米ベースでもやはり2.5%ポイントはあるのではないか、詳しくはHurstの研究の最終結論を待ちたい、と強弁染みたことを書いたため、Economist's ViewのMark Thomaの怒りを買った。Hurstの研究の進展を待たずとも、他にサンフランシスコ連銀の研究のような正式な分析に基づいて失業増の大部分は循環要因であると結論づけた研究があるのに、なぜそれを無視して自分の目の子算を優先するのか、というわけだ。

そのエントリでThomaは、クルーグマン1/15ブログエントリから

all the efforts to insist that it can’t be aggregate demand amount to a refusal to take yes for an answer
(拙訳)
(失業率増が)総需要要因であるはずが無いという主張へのこだわりが、そうした要因を肯定することへの頑なな拒否につながっている

という言葉を引いて、ラジャンの態度を批判している。



ちなみに、Thomaが引用したクルーグマンの1/15エントリでは、失業した人たちの限界生産力はゼロであったという仮説を唱えたタイラー・コーエンが槍玉に挙げられている。このコーエンの仮説は既にサムナーによって批判されているのだが、クルーグマンは以下の点を挙げて反論している*1

  • コーエンはGDPが危機前の水準に戻ったにも関わらず、雇用がそうなっていないことは、失業者はもはや不要になったことを意味している、と論じている。しかし、サムナーが指摘したように、生産性にはトレンド上昇率というものがあり、一人当たりGDPは上昇を続ける。このトレンドが継続したという事実に妙な深読みは不要ではないか?
  • また、こうした現象は、深刻な不況の後には必ず起きる。レーガン時代の1983年半ばもGDPは以前のピークの水準を回復していたが、雇用の回復はまだ緒に付いたばかりだった。コーエンの議論をこの時期に当てはめると、1983年前半は限界生産力の労働者が数多くいたが、彼らは翌年に突如プラスの限界生産力を手にしたことになる。
  • 労働者の限界生産力がゼロならば、なぜ賃金がゼロにならないのか、あるいはゼロと言わないまでも、働くことと働かないことが無差別になる水準にまで低下しないのか、という論理上の問題もある。もしその理由を賃金の粘着性に求めるならば、それは即ち、我々が総需要が問題になる世界にいることを意味する。
  • 生産のある要素の限界生産力がゼロならば、別の要素の限界生産力が極めて高いことになる。従って、その別の要素への需要は大きなものとなるはずである。その別の要素とは何だったのか? それが資本だとすると、ほとんどあらゆる品目で過剰生産能力が見られることと矛盾する。また、特定の技術もしくは特定の地域の労働力だとすると、あらゆる教育レベルや地域で失業率が倍増したというマイク・コンツァルの報告する事実と矛盾する。

なお、上記でクルーグマンやサムナーの批判対象となったコーエンのブログエントリは昨年7月時点のものだが、最近においてもコーエンは、やはり総需要不足だけを失業要因と見做すことに疑問を投げ掛けたエントリを立てている

*1:[1/17追記]道草にコーエンサムナークルーグマンの各エントリの訳が上がっている。