ブログは研究と呼べるか?

少し前にWCIブログのFrances Woolleyがそう疑問を投げ掛けていた。以下はその拙訳。

学者ブロガーは誰しもある疑問に秘かに心を悩ませている:これは研究の名に値するのか?


Glen Ellisonの新しい論文(ungatedバージョンはこちら)は、トップクラスの学者の出版方法がインターネットによって変わった、と論じている:「出版の際にこれまで我慢してきた厄介事が必要無いことに、ますます多くのトップクラスの経済学者が気付き始めているようだ。」 ハーバードのような大学の経済学者は、(査読抜きの)ワーキングペーパーとして研究を出版するようになっている、と彼は言う。アメリカン・エコノミック・レビューのようなトップクラスかつ専門分野に特化していない学会誌に掲載されるのでなければ、彼らは単に学会誌への投稿を完全にやめてしまう。そして、投稿に付随する却下やら煩わしい書き直しの苦痛も併せて回避する。


研究は、もはや査読付き学会誌への掲載とは完全に等価では無くなった。


Ellisonは、そこに所属していることが研究の質を保証するようなトップクラスの大学では研究の伝達方法が変わりつつある、と主張する。彼はスコット・サムナー現象を無視している。即ち、無名大学の学者が、従来の学会誌への論文掲載によってではなく、ブログを通じて国際的名声を得ることもあるのだ。


インターネット時代には個人の評判が重要となる、という点についてはEllisonに賛成する。ライトセーバーを振り回すテクニックが何十億回も閲覧されたスター・ウォーズ・キッドの辿った苦難を想像してみるが良い。


しかし、ハーバードの学者だけが従来型の研究チャネルを迂回する恩恵に浴する、という点については確信が持てない。


以前紹介したように、ブログと研究の関係については、同じWCIブログでNick Roweも論じたことがある。また、Rajiv SethiDeLisle Worrellバルバドス中央銀行総裁も、査読付き論文のあり方の変容について述べている。



なお、Woolleyは、最近のエントリで、学者でない経済ブロガーの台頭について書いている。序でにそれも拙訳で紹介しておく。

ニューヨークタイムズは、2010年の「アイディアの一年」特集号をこのほど発行した。そこで取り上げられている最近の傾向の一つが、日曜大工経済学である。金融危機は、オンラインで取得できるデータの増大と相俟って、「増加しつつある博識な『経済ブロガー』の一団」を生み出した、とのことである。


その記事の結論の一つには同意する。経済ブロガーは「経済データの洗練された解釈を提供し、そのデータの特長について読者と熱心に議論する」、という点だ。


しかし、もう一つの結論はどうかと思う。経済ブロガーによって、経済データの解釈のコントロールが経済学者の手から離れつつある、という点だ:

そうしたブログ主の多く、即ち、The Big Picture、Calculated Risk、Mish’s Global Economic Trend Analysis等々の中の人は、学界の経済学者ではなく、金融市場での実務経験を持つ人々である。

でも、学界の経済学者として言わせてもらえば、コントロールは経済学者が握っていて欲しいと思う。


このエントリに、WCIブログの総帥であるStephen Gordonが以下のようにコメントしている(拙訳)。

確かに非学界ブログから出てくるものの中には非常に価値の高いものもある。Calculated Riskは途轍もなく有益なリソースだ。しかし彼らの強みは、リアルタイムで大量のデータをかき分けることにある。それはまさに金融業界の専門家が訓練を受ける技能だ。しかし、こと政策分析に話が及ぶと、彼らが経済学のバックグラウンドを持っていないことは極めて――特には痛々しいほど――明らかとなる。
(ただし、Calculated Riskは上記の最後のコメントの対象外である。というのはBillは自分の専門分野の外に口出ししないし、Tantaは聡明だった。)

それに対しWoolleyは、自分自身もマクロ経済学を知らないので、その点の見解はGordonに任せる、と応じている。