研究していることと信じていること

と題したブログエントリをRowe書いている(原題は「What we research, and what we believe」)。
以下はその拙訳。

あなたが理論Xを信じているものとしよう。あなたは理論Xの研究をしたいと考えている。ところが、理論Xに関する興味深いアイディアはすべて研究し尽くされている。あなたは理論Xについて言うべき興味深く新しいことを何も思いつくことができない。あるいは、理論Xには何か未解決の取り組むべき問題があるのかもしれない。だが、あなたはそれに取り組むべき方法をまったく思いつくことができない。
そこへ理論Yが突然登場する。理論Yは新しく、あなたの持っている技術で研究できる未開拓の分野が多く存在する。あなたは理論Yを信じていないが、あなたが研究することによって理論Yに有益な貢献ができる。
さて、あなたはどうすべきか?
もしあなたが野心ある経済学者、特に、学位論文のテーマや発表すべき論文を必要としている野心ある若い経済学者ならば、理論Yについての研究をする強い動機を持っていることだろう。たとえ野心的でなく、単に仕事を続けるための研究テーマが欲しいだけ、もしくは尊敬を失わないための発表論文が必要なだけだったとしても、理論Yについて研究する動機を持っていることになる。
そして、自身は信じていない理論の発展のために経済学者が研究を動機付けられることは、必ずしも悪いことではない。
我々が理論Xは理論Yよりも優れていると信じているものとする。しかし、XがYより優れていることについて確証を得ていないものとする。他の人々は逆のことを信じているかもしれない。我々が間違っている可能性も有り得る。それに業績の期待値の観点からすると、理論Yに貢献することの方が、理論Xに何も貢献しないよりまだましだろう。
たとえ自分たちが理論Xが理論Yより優れていることを完全に確信していたとしても、他の人々に理論Yに先が無いことを納得させるには、彼らの理論Yの開発研究に参画してその結論を導くしか方法が無いかもしれない。その結果、理論Yに先が無いことを皆が理解すれば、理論Yの入り口に大きな看板を掲げ、我々はここの研究をやり尽くして行き止まりであることを確認したので、この先に進んで時間を無駄にしてはいけない、と未来の経済学者に伝えることができる。
しかもひょっとしたら、その行き止まりに行く道中で、他のもっと有望な道を辿る際に使えるヒントや技法が得られるかもしれない。
我々が研究することと信じることは、必ずしも一致するわけではない。学術誌に掲載されるているのは、我々が現在研究していることに関するサーベイとなっている。それは、我々が現在信じていることの正確なサーベイとは言えない。皆が既に信じていることは掲載しないことにこそ学術誌の役割があるのだ。学術誌の役目は、我々が現在どこの金鉱を探しているかを示す地図となることにある。それは、発掘済みの金の貯蔵場所の地図ではないし、現在の技術では探索不可能な金鉱のありそうな場所の地図でもない。
ということで、理論Xを信じながら理論Yを研究することは必ずしも悪いことではない。しかし、気をつけておくべき3つの危険がある。
一つ目の危険は、我々が理論Yの研究をしているのを見た他の人々が、我々が理論Yを信じていると誤って受け止めてしまうことだ。彼らは、学術誌が我々の信じていることのサーベイにはなっていないことが分かっていない。あるいは、もしそれをそうしたサーベイであると捉えてしまうと、非常に偏ったサーベイということになってしまう。
二つ目の危険は、それを研究して成果を生み出しているという理由だけで、その理論を信じ始めてしまうことだ。我々は、理論Yに関する研究と成果が有益なもので、真実の発見につながるものだと信じたくなる。もし釘をハンマーで打つことしかできなければ、すべての釘はハンマーで打つ必要がある、と本当に信じたくなるものなのだ。
三つ目の危険は、我々の学生を誤誘導してしまうことだ。院生は、「最先端」の研究を教わる必要がある。というのは、近い将来に彼らがマシェーテを振り回して収穫を刈り取るのは、やはりその分野になるだろうからだ。ということで、我々は理論Yについて彼らに多くを教え込む。自身が理論Yを研究している教授が彼らに教えることもあるだろう。あるいはその教授は、二つ目の危険に既に嵌ってしまっている人かもしれない。三つ目の危険とは、自らが教わっているという理由だけで、皆が理論Yが最高のものと信じていると学生が受け止めてしまうことだ。
私はリアルビジネスサイクル理論は理論Yだと思う*1

このエントリのコメント欄では、Sinaというコメンターが次のようなことを書いた。

Sometimes I wonder if economics as a whole is theory Y.
(拙訳)
時々、経済学そのものが理論Yではないかと思うことがある。


このコメントに対し、常連コメンターのKevin Donoghueが以下のように反応した。

Sometimes I wonder if economics as a whole is theory Y.
You are not alone. “The purpose of studying economics is not to acquire a set of ready-made answers to economic questions, but to learn how to avoid being deceived by economists.” Matt Yglesias is doing better economics blogging than most blogging economists. I suspect this is partly because philosophy students are not so likely to assume that currently fashionable ideas are necessarily better than those of the ancients.
(拙訳)
時々、経済学そのものが理論Yではないかと思うことがある。
そう思うのは貴兄だけではない。「経済学を学ぶ目的は、経済の問題に対して一連の出来合いの答えを得るためではなく、どうしたら経済学者に騙されないかを学ぶことである*2。」 マット・イグレシアスは、ほとんどの経済学者のブログより優れた経済ブログを書いている。その理由の一つは、現在流行りのアイディアは必ず過去のものより優れている、と決めてかかることを哲学の学徒はあまりしないためではないか、と私は睨んでいる。

このDonoghueのコメントは、拙ブログの11/7エントリの最後の段落に記した小生の感想と通底しているように思われる。


そして、その二人に対し、Rowe自身は以下のように反応している。

Sina: Hey! Young people aren't supposed to be that cynical! You must be doing too much math!

But yes. But then maybe all disciplines are theory Y too. It does make sense to look for your keys under the lamp post, if you have no idea where you lost them. And anyway, truth is not like a set of keys. It's not all just in one place.

But you can't really talk about whether a theory is theory Y except relative to theory X. So it's a bit problematic to say that *all* of economics is theory Y.

Kevin: yep. Any philosophy student knows that philosophers have driven round the block a few times over the years. I expect that's one of the advantages of learning some history of economic thought, as well. Even if you remember nothing else, you ought to remember that intelligent economists have believed many different things in the past. Theories come and go, and sometimes come back again.
(拙訳)
Sina:
おいおい、若い人がそんなシニカルになってはいかんな! 数学をやりすぎたのかい!
でも、確かにそうだ。ただ、それを言うならば、すべての学問分野もまた理論Yなのかもしれない。もし鍵をどこで落としたのか分からなければ、明かりのあるところを探すというのも一つの理屈だ。それにいずれにせよ、真実は鍵束とは違い、一箇所にまとまって落ちているわけではない。
だが、ある理論が理論Yかどうかは、あくまでも理論Xとの相対的な関係によって決まる。だから、経済学「すべて」が理論Yだと言うのは少し問題がある。
Kevin:
その通り。哲学学徒なら誰しも、哲学者がこれまで同じ一画を何度かぐるぐると回ってきたことを知っている。経済思想史について学ぶことの利点も、そういったことを知ることにある、と私は思う。たとえ他のことはすべて忘れてしまったとしても、過去に賢い経済学者が相異なることを数多く信じてきたことだけは覚えておくべきなのだ。理論は現われては去り、時にはまた戻ってくる。


またRoweは、行動経済学のような最新の流行りものが理論Yかと思った、という共同ブロガーのFrances Woolleyのコメントに対し、

Frances: I had RBC theory in mind as theory Y. For macroeconomists of my vintage, it works well as theory Y. For an earlier vintage, I think Keynesian economics was a bit theory Yish. Outside of macro, there are loads of other theory Y's.

We ought to be weasels, a bit. I don't see any sensible alternative. The only alternative is to be a nut who thinks he has found the truth, the whole truth, and nothing but the truth.
(拙訳)
Frances:
私は理論Yとしてリアルビジネスサイクル理論を念頭に置いていた。私くらいの年齢のマクロ経済学者にとっては、それがまさに理論Yとして機能した。私より前の世代にとっては、ケインジアン経済学が多少は理論Yのように機能したことだろう。マクロ経済学以外の分野では、また違った理論Yが数多く存在する。
我々は少しばかり斜に構えるべきだと思う。それ以外に賢明な選択肢はない。他の唯一の選択肢は、自分が真実を、すべての真実を、そして真実だけを発見した*3、と考える馬鹿野郎になることだ。

と応えた上で、本文に以下の追記を行っている。

Update: in response to Frances' comment. What I meant to say is that Real Business cyle theory has been one theory Y over that last few years. It won't always be theory Y in future. There have been other theory Y's in the past. Outside of macroeconomics, there are other theory Y's right now.
(拙訳)
Francesのコメントを受けた追記:私が言いたかったのは、リアルビジネスサイクル理論が過去何年かに亘って一つの理論Yだった、ということだ。それが今後も理論Yであり続けるとは限らない。過去には別の理論Yがあった。マクロ経済学の外に目を転じると、また違った理論Yが現在も存在している。