12日のエントリでカール・スミスの経済モデル論を紹介したが、そこでスミスは表題のマンキューの2000年の小論にリンクしている(原題は「The Inexorable and Mysterious Tradeoff Between Inflation and Unemployment」)。
その小論でマンキューは、自らの教科書で示した経済学の十大原理の10番目=「社会は、インフレと失業率の短期的なトレードオフに直面している」について論じている。
以下はその簡単なまとめ*1。
- この原理は、十大原理の中で最も論争の的になり、1990年代後半の低インフレ率と高成長率の並存という経験に照らして修正すべきではないか、という人もいた。しかし、このトレードオフ関係の存在を認めること無しに、景気循環や短期の金融政策の効果を理解することはできない。その意味で、この関係は「厳然たる」ものである。
- 一方で、現代の経済学は未だこのトレードオフ関係を説明することができない。その意味で、この関係は「謎めいた」ものである。
- この原理は、フィリップス曲線について述べたものではなく、金融政策について述べたものである。具体的には、金融政策の変化が両変数を逆方向に押しやることを述べたものである。これは、1752年にヒュームが既に気付いていたことであり、1980年代のリアル・ビジネス・サイクル論者のような貨幣の中立性を標榜する少数派を除けば、経済学者のコンセンサスと言って良い。
- フィリップス曲線についての経済学者の見方は分かれている。ルーカス=サージェントのような否定派がいる一方で、適応的期待と供給ショックを取り込むことにより安定したフィリップス曲線が構築できた、とするブラインダーのような肯定派がいる。マンキュー自身はその両極の中間の見方を取る。ルーカス批判を脇に置いても、NAIRUの推計誤差という問題を肯定派は軽視している。その反面、フィリップス曲線によるインフレの予測精度は他の変数による予測精度を上回る、というストック=ワトソンの1999年の報告もあるので、単純に捨て去るのもまた誤り。
- この件についてマンキューが頭を悩ませている問題の一つは、自然率仮説と金融ショックの履歴効果のどちらが正しいか、というものである。ローレンス・ボール(Laurence Ball)の1997年と1999年の報告によると、低インフレ率ないし非拡張的な金融政策を経験した国の自然失業率は高まる傾向があると言う。また、バーナンキとイリアン・ミホフ(Ilian Mihov)の1998年の共著論文でも、金融政策ショックの実質GDPへの影響が10年後も残存していることが示されている(ただし著者達はこの結果を重視していないが)。
キャンベルとマンキューの昔の共同研究では、実質GDPへのショックの影響は長く残るという結果が出ている*2。このショックは実物要因である(自然率仮説)という可能性も捨てきれないが、前述の研究に鑑みると、そうではなく金融要因によって生じている(金融ショックの履歴効果)という可能性もあるのではないか。
- 貨幣の非中立性に関しては、様々な理論的説明が試みられてきた。マンキューが学生時代にブラインダーから習った時には、名目賃金の硬直性という説明が、神ないしケインズ(両者はブラインダーの講義ではほぼ同義だった)の真理とされていた。ただ、その理論には、予測される実質賃金の反景気循環性が現実には見られない、という致命的欠陥があった。それが、名目価格の硬直性というマンキュー自身の理論につながった。
- ただ、静学的にはその名目価格の硬直性で説明がつくとしても、動学的には説明がつかない。それは依然として謎として残っている。
最後の動学的には説明がつかない、という部分に関して、マンキューは以下の表を提示している。
<緊縮的な金融ショックへの各理論のインパルス反応関数>
四半期 | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
インフレ率 | 0.0 | 0.0 | -0.1 | -0.3 | -0.6 | -1.0 | -1.4 | -1.7 | -1.9 | -2.0 | -2.0 |
<各理論による失業率> | |||||||||||
Traditional backward-looking model | 0.0 | 0.0 | +0.8 | +1.6 | +2.4 | +3.2 | +3.2 | +2.4 | +1.6 | +0.8 | 0.0 |
Backward-looking model with hysteresis | 0.0 | 0.0 | +0.8 | +1.7 | +2.6 | +3.7 | +4.0 | +3.5 | +3.0 | +2.3 | +1.6 |
New Keynesian forward-looking model | 0.0 | -0.8 | -1.6 | -2.4 | -3.2 | -3.2 | -2.4 | -1.6 | -0.8 | 0.0 | 0.0 |
Fuhrer-Moore model | 0.0 | -0.4 | -0.4 | -0.4 | -0.4 | 0.0 | +0.4 | +0.4 | +0.4 | +0.4 | 0.0 |
<各理論の式>
- Traditional backward-looking model
- πt = πt-1 - 1/8 (Ut - U*)
- Backward-looking model with hysteresis
- πt = πt-1 - 1/8 (Ut - U*t); U*t = .9 U*t-1 + .1 Ut-1
- New Keynesian forward-looking model
- πt = Etπt+1 - 1/8 (Ut - U*)
- Fuhrer-Moore model
- πt = (πt-1 + Etπt+1)/2 - 1/8 (Ut - U*)
ここでインフレ率が下がった時に失業率が上がるという実証結果と整合的な関係を示しているのは、昔ながらのバックワード・ルッキングなモデル(ないしそれに履歴効果を取り込んだもの)だけで、カルボのプライシングモデルというミクロ的な基礎付けを持つニューケインジアンのフォーワード・ルッキングなモデルは、実証と逆方向の結果を示している*3。Fuhrer-Mooreの折衷的なモデルも、その問題を解決するに至っていない。これがマンキューが謎と称する所以である。
*1:ここでマンキューが提示した“謎”についての日本語の解説はこちらも参照。
[2010/6/4追記]財務省のサイトがリンク切れになっていたので、国会図書館のアーカイブにリンク先を変更。
*3:この不整合が起きたのは、マンキューが、インフレ率について、金融ショックに直ちに反応するのではなく、徐々に反応していく、という各種実証研究に基づく制約を課したためである。フォーワード・ルッキングモデルは、その性格上、企業が将来の予想インフレ率の低下に直ちに反応して価格を引き下げることになっているため、マンキューの制約を満たすためには、将来の経済に対する見方を強気にして埋め合わせるしかないわけだ。
マンキューによると、これは1994年のボールの指摘と1995年のFuhrer-Mooreの指摘を別の形で示した格好になっていると言う。1994年論文でボールは、将来の(金融引き締めによる)インフレ低下が宣言された際、ニューケインジアンモデルでは実際の貨幣供給の減少に先んじて企業が素早く価格を引き下げるため、実質貨幣残高がむしろ増加して好景気が生じることになる、という問題点を指摘したとの由。一方、Fuhrer-Mooreは、1995年の論文で、ニューケインジアンモデルがインフレ率の連続性という実際に見られる現象を説明できないことを示したという。