ケインズから現代経済学へのメッセージ?

先般話題になった非自発的失業を巡る齊藤誠氏と飯田泰之氏の論争であるが、そもそも非自発的失業の概念を持ち込んだケインズの一般理論を紐解いてみると、恰もこうした論争を予期していたような記述があることに気付いた。
ただ、この一般理論の原文はここここなどで公開されているものの、日本語版はあくまでも書籍ベースしかないので、引き写すのが面倒だな…、と思ってぐぐってみると、自身で序論を訳されている方がおられることを知った(こちらのTogetterも参照)。


以下では、そのtomokazutomokaz氏の訳から、ケインズが古典派理論を皮肉った箇所をピックアップしてみる。

  • 第二章第四節(最終段落)

しかしながら、もし古典派理論が完全雇用状態にしか適用できないものなら、仮に「非自発的失業」が存在するとして(誰がそれを否定するだろうか)、この失業問題にこの理論を適用するのは明らかに間違っている。古典派の学者は非ユークリッド世界のなかのユークリッド幾何学者に似ている。彼らは見かけ上は平行な2直線が実際には交わることを見出しても、線と線の不幸な交差を正すには線をまっすぐにすれば解決するのにそうしないのが悪いと言って非難する。しかし実際には、平行線の公理を捨てて非ユークリッド幾何学を構築するしか解決方法はないのである。同様のことが現在の経済学にも求められ[て]いるのだ。我々は古典派経済学の第ニの公理を捨てて、「非自発的失業」が厳密な意味で可能となるような経済行動の体系を構築する必要があるのである。

  • 第三章第三節

総需要関数は無視しても構わないとする思想はリカード経済学の根本思想であって、この100年以上の間我々が教えられてきた経済学の根底にあるものである。確かに、有効需要が不足するなどありえないとするリカードの教義にマルサスは激しく反対したがうまくいかなった。というのは、マルサスはなぜどうして有効需要が不足したり過剰になったりするのかうまく説明でず、単に常識的な観察的事実に訴えるしかなかったので、リカードに取って代わる体系を提示することができなかったからである。
そして、宗教裁判がスペインを征服したように、リカードは英国を完全に征服してしまった。彼の理論はロンドンの金融街にも政界にも学界にも受け入れられただけでなく、論争自体が終わってしまったのである。もう一つの物の見方は完全に姿を消してしまい、もはや議論の対象にさえならなくなってしまった。そして、マルサスが取り組んだ「有効需要」という巨大なパズルは経済書から姿を消してしまった。古典派の理論を成熟した形に完成させたマーシャルとエッジワースとピグー教授の本には有効需要という言葉はどこにも見当たらない。それはカール・マルクスとシルヴィオ・ゲゼルとダグラス少佐が暮らす水面下の隠れた世界で、ひっそりと命を長らえていただけなのである。
リカードの勝利の完璧さは不思議であり興味をそそられる。リカードの教義にはそれが提示された環境に対する様々な適応力があったに違いない。一般の教養のない人にとって予想外の結論に至っていることによって、彼の教義には知的権威が付け加えられた。実行に移された彼の教えが禁欲的でしばしば口に苦いものであることによって、そこには美徳が加わった。また彼の教義は広範な一貫性ある論理的上部構造をもつよう作り変えられたことで、美しさも手に入れた。
多くの社会不正と明らかな冷酷さを進歩の過程の避けがたい出来事だと説明し、そのような状況を変えようとする試みを全体として善をなすより害をなすものと説明したことで、彼の教義は権力者たちの寵愛を手に入れた。個々の資本家の自由な行動を正当化する手段を与えたことで、権力の後ろにいる支配的な社会勢力の支持も獲得した。
しかし、教義自体はつい最近まで正統派経済学者たちによって何ら問題視されることなく存在し続けたけれども、科学的予見の方面ではっきり失敗したことで、専門家たちの威信は次第に大きく損なわれていった。というのは、マルサス以降のプロの経済学者たちは、自分たちの理論と観察的事実の間に繋がりがないことを気にしなかったように見えるが、この食い違いは一般人の目には明らかとなり、他の分野の科学者がその理論的結果を事実に適用して、観察によって確認していることで、一般人の尊敬をかち得ているのに対して、経済学者はそのような尊敬が得られなくなったのである。
伝統的な経済理論の有名な楽観主義のおかげで、経済学者たちはカンディードたちであると言われるようになっていった。カンディードは自分の庭を耕すためにこの世を捨て、現状をあるがままに認めさえすれば最善の世界において全てが最善の結果を迎えると教えるのである。この楽観主義の起源もまた元をたどれば、有効需要の不足によって繁栄の足が引っ張られる可能性に当時の経済学者たちが一顧だにしなかったことにあると思われる。
というのは、古典派の公理のとおりに機能する「社会」では、自然に任せておけば人的資源の最適雇用が実現されることが明白だからである。おそらく古典派の理論は我々が「経済」にどのような振舞い方をして欲しいかを表現したものなのだろう。しかしながら、実際の経済がそのように振舞うと想定することは、この世の中に困難など存在しないと想定することなのである。

二番目の引用箇所でのケインズの「カンディード」という当てこすりは、飯田氏の「おめでたい」という齊藤氏への批判にそのまま通ずるように思われる。


また、そこでの

一般の教養のない人にとって予想外の結論に至っていることによって、彼の教義には知的権威が付け加えられた。実行に移された彼の教えが禁欲的でしばしば口に苦いものであることによって、そこには美徳が加わった。また彼の教義は広範な一貫性ある論理的上部構造をもつよう作り変えられたことで、美しさも手に入れた。
多くの社会不正と明らかな冷酷さを進歩の過程の避けがたい出来事だと説明し、そのような状況を変えようとする試みを全体として善をなすより害をなすものと説明した・・・

というケインズの古典派理論の描写は、

人びとの期待値は、長期均衡水準よりも高いところにある。そのギャップを我慢できず、なんとかして埋めたいという思いが需給ギャップ解消、デフレ脱却、成長戦略前倒し、といった勇ましい政策要求につながっている。

齊藤 誠 一橋大学大学院経済学研究科教授低生産性・高コスト構造を自覚せよ | デフレ日本 長期低迷の検証 | ダイヤモンド・オンライン

と“一般の教養のない人々”の期待を断罪し、「低生産性・高コスト構造を自覚せよ」という“禁欲的で”“口に苦い”“教え”を説き、「先端の経済学」を「良質なメッセージ」を発する“広範な一貫性ある論理的上部構造をもつ”(=そのために修得に「厳格なトレーニング」が必要な)“教義(doctrine)”として称揚した齊藤誠氏の発言に対してそのまま当てはまるように思われる*1



なお、齊藤氏は、現代経済学で非自発的失業や需給不均衡が捨て去られた理由について、均衡分析の方が「前向きな分析姿勢」であり、

実質賃金が高止まりして労働供給が労働需要を上回る非自発的失業が生じたとして、経済理論家は、相対的に過小となっているジョブをどのように労働者に割り当てるのかに関して、説得的な理論モデルを作らなければならない。しかし、そうした割当メカニズムのモデル化が大変に厄介なので、いっそうのこと最初から均衡として失業現象を説明できるモデルを作ってしまう方がはるかにすっきりした知的作業となる。

からである、と説明している。これは、上記の一番目の引用に即して言えば、ユークリッド幾何学の方がすっきりしているので非ユークリッド幾何学を捨て去った、という姿勢のようにも見える。そうした分析姿勢の結果、平行線が交わるのは線のせいである、という結論が導き出されることになった、というのがケインズの批判である。

*1:それによって“権力者たちの寵愛を手に入れた”とまでは思わないが…。