数学なんかいらない?

EconomistのFree Exchangeでライアン・アベントが面白い記事を書いていたので、以下に訳してみる(…4/1付けだが、エイプリルフールネタではないと思う、多分)。

ジャスティン・フォックスが看破した

アカデミックな経済学論文の基本的な形式は、最初に理解可能な数段落があって、最後に理解可能な数段落があって、その間に非常にとっつきにくい数学や統計分析の塊がある。

フェリックス・サーモンも喝破した

彼が(あえて)言わなかったことは、私を含むジャーナリストが経済学の論文を読む方法だ。一般に我々は、数式や回帰分析の細部を理解する能力も意思もないので、英語で書かれた部分だけを読み、数学の部分はきちんとしているのだろうという大まかな前提に立っている。

しかしサーモン氏は、このように論文の数学的な中心部分をおざなりにすることが、少しでも新奇で刺激的なことを追い求めるジャーナリストの性と相俟って、誤った情報の伝播に容易につながるのではないかと懸念する。

ブロゴスフィアは、他人の言っていることをきちんと理解し反応する人たちの間で交わされる興味深い議論に満ちている。しかし、経済学の論文が引用された途端、理解度は急低下する。大抵のブロガーとジャーナリストは、方程式の集合に恐れをなし、それらはすべて成立しているのだろう、という単純な前提に逃げ込む。
この問題を解決する簡単な方法は無いが、少なくとも最低限なされるべきことは、それらの論文が今よりもオープンな場に曝される機会を増やすことだろう。自分の無知を認めることが好きな人はいないが、我々がそうしたことをもっと頻繁に行なえば、ブロゴスフィアはより良くなるのではないかと思う。特に経済分析の仔細に亘る部分について効果があるのではなかろうか。

もっと多くのブロガー(そしてジャーナリスト全般)が数学や実証分析を理解できた上で論文の評価を下せた方が良い、というのは疑いなく正しい。また、新しい論文は注意深く扱うのが一般に賢明である(ジャーナリストが情報ソースとなり得るものを注意深く扱うべきなのと同様だ)。理解可能な文章部分も無駄というわけではない。その部分は、数学で肉付けされる議論の根底にある論理への案内となる。もし論理の辻褄が合わなければ、疑ってかかるべきだ(ただし跳ねつけるべきではない)。そして論文に得心がいかなかったら、論文の裏付けとなっている結果に目を向けるべきである。その際、個別的に見い出された結果を、それぞれ細心の注意をもって扱う必要がある。
なお、サーモン氏はフリーな情報の熱心な推進者であるが、アカデミックな論文に関していえば、私も公開度が高いほど良いと思う。世間で良く引用される他の情報ソースに比べて論文の信頼度は高いだろうし、誤情報が発見されて最終的に訂正される可能性も論文の方が高い。数学でさえフィルタリングの役割を果たしていると言える。内容をあまり把握していない人が、(馬鹿なことを言うのを恐れて)論文を直接引用するのを控える傾向をもたらすからだ。その代わり、そうした人は専門家にコメントを求め、結果として論文の意味と有効性に関してより適切な評価を得る可能性が高まる(学者の言葉は、得てして「興味深い結果であるが、その正当性についてはもっと検討する必要がある」といった言葉で締めくくられる)。
ということで、全般的に見れば、アカデミックな論文が自由に利用可能になるのは非常に良いこと、と言える。