ブライアン・キャプランが、公共財の典型例として良く挙げられる国防力が、実は公共財ではないということを証明している。
その証明とは以下の通り。
- 国防力が公共財であるためには、(定義により)その存在の社会的便益が社会的費用を超えなくてはならない。
- 国防力の社会的便益と社会的費用は、(定義により)人々が支払いたいと思う額の総和である。
- 平均的には、人々が自らの身の安全のために支払いたいと思う額は、他人の身の安全を減少させるために支払いたいと思う額よりも多い。(ここ重要;これを限定悪意性と呼ぼう)
- もしどの国も国防力を持たなければ、人々の平均的な身の安全は現在よりも高まる。というのは、どの国においても、国防力によって抑止する危険とは、他国の国防力による攻撃だからだ。
- (4により)国防力の存在は人々の平均的な身の安全を減少させる。そして、(3により)人々が自らの身の安全を増加させるために支払いたいと思う平均的な額は、他人の身の安全を減少させるために支払いたいと思う平均的な額よりも多い。よって、国防力の存在によるネットの社会的便益はマイナスである*1。
- 従って、(1と2より)国防力は公共財ではない。
一言で言えば、「国防力を誰も持っていなければ、誰も欲しがらない」ということ、とキャプランは述べている。そして彼は、国防力ではなくその廃止こそ公共財として教科書に載せるのが正しいが、経済学者は皆ナショナリストなのでそれは難しかろう、とも述べている。
(…一昔前の社会党が喜んで飛びつきそうな論理ではある)
*1:費用としては自らの身の安全を増加させるために支払いたいと思う平均的な額を支出しているのに、得られる便益は他人の身の安全の減少(しかも他国の国防力により自分の身の安全も減少する)、ということか。