賃金分布と最低賃金

7/31の最低賃金に関するエントリ大竹文雄氏にTBしたが、本日、それへの応答とも読める大竹氏のエントリがあった。


7/31エントリで小生は、最低賃金引き上げ率がそれによる失業率上昇を上回るならば、最低賃金労働者にとってメリットになるのではないか、と書いた。こうした考え方について、大竹氏は以下の問題点を指摘した。

  1. 最低賃金が引き上げられた場合に、そこで雇われる人は、低い賃金でもいいから最も働きたいと思っている人(消費者余剰の大きい人)から雇われるわけではなく、どの程度働きたいという気持ちが強いかとは無関係にランダムに雇われる。そうすると、賃金上昇による消費者余剰の増加は、その分小さくなる。
     
  2. 仮に、労働者としての消費者余剰が最低賃金上昇によって増加しても、生産者余剰は確実に減少し、その効果が上回るので社会的な総余剰は確実に減少する。
     
  3. 最低賃金が引き上げられなければ、全員が雇われていた場合でも、引き上げによって、運よく職を得られる人とそうでない人の間に格差が発生する。その意味でも、格差解消策どころか、格差拡大策になる。最低賃金引き上げによって、職についている人の間の賃金格差は縮小するが、職につけない人が増えるのだ。


実は、小生はこの大竹氏の指摘には異論は無い。小生の得失議論があくまでも該当労働者からの観点に留まっていたのに対し、経済全体の影響を正統的なミクロ経済学の観点から分析すれば、そういった問題点が指摘されるというのはごく真っ当な話だと思う。実際、小生自身も7/26エントリで「純粋に経済理論的な立場から言うと、マンキューが2006/12/26のブログエントリで指摘した通り、最低賃金の引き上げは非熟練労働者の雇用者への増税と等価であり、意味が乏しい」と書いている。


ただそうした指摘について考えなくてはいけないのは、

  • 大竹氏指摘のような余剰のマイナス効果は、小生が指摘したような局所的なプラス効果よりは小さいのではないか?*1
  • それらのマイナス効果は、橘木俊詔氏がこの大竹氏との対談で指摘したように、景気浮揚策である程度対応できるのではないか?

という点である。経済学者の中にも最低賃金制度ないし最低賃金引き上げを支持する人がいるが、彼らは上記の点のいずれか、もしくは両方についてYESと考えているものと思われる。


この点について、労働人口の賃金分布の簡単な模式図を用いて考えてみよう。当初、労働人口が以下のような賃金分布を示していたものとする。

ここに最低賃金制度を導入すると、下図のように、分布の左の裾野が強制的に断ち切られた形になり、その断ち切られた部分(下図の点線と横軸で囲まれた領域)の労働者は、最低賃金、もしくは失業者に振り分けられることになる(下図の賃金=0、および賃金=最低賃金における太線の縦棒)。この振り分けはランダムになるというのが、上記の大竹氏の第一の指摘である。
また、断ち切られた領域の生産者の余剰は、当然低下する。最低賃金導入前は、その領域でも労働市場の需給によって賃金が決まり、それに応じて生産者の余剰が決まっていたところへ、強制的な分布の「歪み」を持ち込んだことにより、市場によって達成されていた最適な状態よりは全体の厚生は下がることになる。これが大竹氏の第二の指摘である。
それに加え、最低賃金導入後は、それまでとりあえず連続的な分布に従ってプラスの賃金を得ていた人が、賃金=0か賃金=最低賃金かに二極分化してしまう。これが大竹氏の第三の指摘である。

これに対し、大竹氏の第三の指摘については、上述の通り、最低賃金導入によって賃金=0に落ち込む人(つまり失業する人)の割合は懸念するほど大きくないのではないか、という点のほか、その割合は経済全体の浮揚策によって変えられるのではないか、という点が反論として考えられ得る。
下図は、後者の考えを図式化したものであり、政策によって賃金分布が上方にシフト・圧縮される様子を示している。

なお、橘木氏は、そもそも上記の断ち切られた領域における企業というのは、その水準の賃金しか出せないという点で非効率であり、そういった企業には退出してもらって、もっと効率性の高い企業に入れ替わってもらうべき、という構造改革派的なことも述べている。

一方、大竹氏は、断ち切られた領域にいて失業した労働者が、より就職について真面目に考えるようになる結果、分布の上位の仕事に移っていくかもしれない、という仮説を提示している。この仮説は、前述の経済対策や構造改革といった政策要因や生産者側の要因ではなく、労働者の行動様式の変化によって分布がシフトする可能性を示唆する点で興味深い。



もちろん、市場によって達成される最適化は重視されるべきであり、徒にその分布を歪めるのは良くない、という意見も世の中では根強いだろう。その立場に立てば、分布の左裾を最低賃金制度で断ち切るなどはもってのほかで、あくまでも負の所得税といった政策でその領域の人々を支援すべき、ということになる。
そして、それは経済理論的には正しい。
ただ、政策実現の難易度を比較衡量してしまうと、やはりどうしても最低賃金引き上げという手段の方が政治家や人々に訴求することになってしまうのが現状かと思われる。




[追記]
本エントリも大竹氏にTBしたところ、再度、大竹氏のブログで応答エントリ*2が上がった。そこでは関連文献が紹介されているほか、最低賃金で分布のスパイクが生じることについての理論的解釈が説明されている。わざわざそうした手間を掛けていただいたことについて感謝に堪えない。皆様もご一読あれ。

*1:[追記]もちろん大竹氏指摘の通り総余剰分析の枠内ではかならず状況は悪化するが、それ以外の効果を考慮した場合(例:後述の橘木氏の効率性改善効果)や、実際に実証分析を行なった場合の話。

*2:少なくとも小生はそう解釈した。