フリードマンの医療保険論

最近景気の見通しが落ち着いてきたせいか、クルーグマンもマンキューもブログでヘルスケア問題に目を向けているようだ(そのため昨日紹介したような軽いつばぜり合いが起こった)。

当然ながらクルーグマンは公的保険マンセー、マンキューは反対なわけだが、マンキューは昨日紹介したエントリの次のエントリで、フリードマンの8年前のヘルスケアに関する論説を紹介している。ただし中身の紹介はなく、代わりにポインタとなったフォーブス記事へのリンクが張られている。こちらのフォーブス記事を書いたのは、ピーター・ロビンソンというスタンフォード大学フーバー研究所のリサーチフェロー兼フォーブスのコラムニストである。


そのロビンソンのまとめに沿ってフリードマンの記事の内容を紹介すると、以下のようになる。

  • 第二次大戦後、米国の医療には3つの特徴が現れた。
    1. 技術の進歩
    2. 費用の上昇
    3. 不満の増加
  • このうち技術の進歩は、経済の他の分野でも見られた。しかし残りの2つは、医療特有の問題である。食料やコンピュータでは費用が低下すると同時により多くを手に入れられるようになったのに、医療では逆のことが起きた。
  • そうなった理由は、雇用者が負担する保険制度にある。保険の当事者ではない第三者の立場の雇用者が支払いを負担したため、医療制度に無駄が生まれた。というのは、自分のカネを使うほど賢く他人のカネを使う者は誰もいないからである。
  • 雇用者負担の保険が主流となった理由は、税制度にある。医療保険が非課税となるのは、雇用者負担の場合だけだからである。
  • そのような非合理な制度が生じたのは、第二次世界大戦中に端を発する。戦中は政府が賃金に抑制を掛けたので、労働市場での競争に勝つため、企業は医療保険をフリンジベネフィットとして提供するようになった。それが瞬く間に一般化した。
  • 国税庁がその慣行に気付いて、医療保険も賃金の一部として課税しようとしたが、時既に遅し。その慣行を当然視するようになった人々の反対に阻まれて、雇用者提供の医療保険は非課税となることが法律で決まった。
  • 1960年代までに第三者負担の保険が当たり前となっていたので、政府が第三者となるメディケア・メディケイド制度もすんなりと成立した。
  • 従って、こうして積み上げられた過ちを除いていくのが望ましい。まず、個人負担か企業負担かを問わず、医療保険はすべて課税する。また、医療貯蓄口座を促進する。そして、第三者の役割を減らし、当事者が自分で判断する部分を増やす。政府や官僚的な保険会社にはお引取り頂き、他の経済分野と同様の自由市場を医療においても実現する。


このまとめを見ると、いかにもフリードマンらしい自由市場礼賛論が展開されている。だがしかし、元の記事を読むと、ロビンソンが省略した重要なポイントがあることに気付く。それが他国との比較を論じた次の文章である。

Our steady movement toward reliance on third-party payment no doubt explains the extraordinary rise in spending on medical care in the United States. However, other advanced countries also rely on third-party payment, many or most of them to an even greater extent than we do. What explains our higher level of spending?


I must confess that despite much thought and scouring of the literature, I have no satisfactory answer. One clue is my estimate that if the pre–World War II system had continued—that is, if tax exemption and Medicare and Medicaid had never been enacted—expenditures on medical care would have amounted to less than half the current level, which would have put us near the bottom of the OECD list rather than at the top.


In terms of holding down cost, one-payer directly administered government systems, such as exist in Canada and Great Britain, have a real advantage over our mixed system. As the direct purchaser of all or nearly all medical services, they are in a monopoly position in hiring physicians and can hold down their remuneration, so that physicians earn much less in those countries than in the United States. In addition, they can ration care more directly—at the cost of long waiting lists and much dissatisfaction.


In addition, once the whole population is covered, there is little political incentive to increase spending on medical care. Once the bulk of costs have been taken over by government, as they have in most of the other OECD countries, the politician does not have the carrot of increased services with which to attract new voters, so attention turns to holding down costs.

ここでフリードマンは、第三者負担の仕組みと非課税制度が米国の医療費を押し上げたという主張は維持しつつも、同様に第三者負担の仕組みを取っている他国の医療費がそれほど高くない理由については、率直に分からないと告白している。そして、カナダや英国のような政府だけが負担者となっている直轄制度は、民間と政府の混合制度に比べ、医療従事者との賃金交渉の面で有利になるのかもしれない、と推測している。また、政府が市場の独占者として、患者の待ち行列や不満を気にせずに配分を思いのままにできることも寄与しているのだろう、と述べている。さらに、国民皆保険が実現すると、政治家にとって医療を投票の餌に使えなくなり、それが結果的に政府支出が増えなくなることにつながるのではないか、とも書いている。
つまり、フリードマンは、批判的な言辞を弄しつつも、政府による単一保険制度の長所を認めているのである。この部分は、むしろクルーグマン(やマイケル・ムーア)の主張の支援材料になり得るとさえ言える。


また、フリードマンは、論説の結論部において、一種の国民皆保険制度を主唱している。これもロビンソンが触れなかった部分である。

A more radical reform would, first, end both Medicare and Medicaid, at least for new entrants, and replace them by providing every family in the United States with catastrophic insurance (i.e., a major medical policy with a high deductible). Second, it would end tax exemption of employer-provided medical care. And, third, it would remove the restrictive regulations that are now imposed on medical insurance—hard to justify with universal catastrophic insurance.

(拙訳)もっと抜本的な改革は、まず、メディケアとメディケイドを停止するか、少なくとも新規加入をやめ、代わりに米国のすべての家族に惨事保険(非課税枠を高くした医療保険)を提供することである。次に、雇用者提供の医療の非課税を廃止する。三番目に、国民皆惨事保険に合わないような医療保険への規制制度は撤廃する。

フリードマンの考えでは、医療保険の本来の役割とは、ちょっとした怪我や病気ではなく、惨事とも言えるような大きな病気に備えるものである。そして、それは皆保険にすべき、ということである。