金は天下の回りもの

デロングがここでジョン・コクランを批判する際に持ち出した例え話が面白い。

登場人物
アリス、ビバリー、キャロル*1
前提
ビバリーは2ヵ月後にキャロルに返すべき500ドルを持っている。
アリスとキャロルは失業してブラブラしている。

シナリオその1

  • 2ヶ月後にビバリーがキャロルに500ドル返す。おしまい。

シナリオその2

  • ビバリーがアリスに500ドルで家のテラスを作ってもらうことにする。
  • アリスはその売掛金でキャロルに食事を作ってもらう。
  • ビバリーはキャロルに500ドル返す代わりに同額を彼女から借り入れる。
    (担保は増築により資産価値の増した自宅)
  • ビバリーは手元に残った500ドルをアリスに工事代金として支払う。
    その金でアリスは食事代をキャロルに支払う。

シナリオ1でも2でも現金500ドルが最終的にビバリーからキャロルに渡ったことに変わりはないが、それに加えて、シナリオ2では、
 (a)アリスが仕事に就き、労働で食事を手に入れた。
 (b)キャロルが仕事に就き、労働で抵当権を手に入れた。
 (c)ビバリーは家の一部を抵当に入れる代わりにテラスを手に入れた。
という効果が、紙幣の増刷なしに生じた。従って、紙幣の増刷なしに投資の増加は不可能、というコクランの言説は誤り、というのがデロングの論点である。


このシナリオ2は、3人の主体が登場し、500ドルのマネーが流通して、1000ドルの生産(テラス+食事)が行なわれた、という非常に簡単な経済モデルになっている。この時の貨幣の流通速度は1000÷500=2である(ビバリー→アリス→キャロル)。


では、もっと登場人物を減らして、もっと簡単な経済モデルが作れないだろうか? そうして得られる最小限のモデルとはどんなものだろうか? …と考えてみると、実は我々日本人は昔からそうしたモデルを知っていたことに気づく。落語の「花見酒」がそれである。その噺では、酒を花見客に売るつもりの二人が、お互いに対して売買を繰り返し、結局1円も儲からなかった、という落ちになっているが、経済モデルとして見ると、酒の消費がそのままいわば二人のGDPになっており、二人が酒代を交換した回数が貨幣の流通速度になっている*2


なぜそんな話を持ち出したかと言うと、以前、その花見酒を例に出して、経済を例え話で考える際の落とし穴を某所で指摘したことがあったのを思い出したからである。参考までにその時のコメントを紹介しておく。

日本さんちの家族全員の年収を合計すると、だいたい5億円。
そのうち働きに出ている家族は64人。半分ほどです。

「働きに出ている」とは何処へ?

以前もコメント欄で紹介させていただきましたが、http://www.pkarchive.org/trade/company.htmlにあるように、一国経済は大まかに言って閉鎖系システムなのです。

5億円というのは、実は、落語の「花見酒」と同様、大部分が家族同士でお金とサービスをやり取りした結果に過ぎません。

また、この「円」という単位も、普通の家族での「肩叩き券」が肩叩き何回に相当するのかというのと同様、日本さんちの家族同士で流通している家族紙幣の単位に過ぎません。(http://cruel.org/krugman/babysitj.htmlもご参照ください)

そう考えると、その「円」で計った額の帳尻を絶対視するのが、それほど本質的ではないことがお分かりいただけるでしょう。

404 Blog Not Found:日本(ヒノモト)さんちの家計の事情

…もちろん、この小生の指摘でこのブログ主の経済理解が深まったということがあるはずもなく、その後も彼が珍妙な経済学を振り回しているのは周知の通り。
ただ、デロングやクルーグマンが指摘するように、本職の経済学者でもそこをきちんと理解していない人が多いのであれば、あるいはそれも無理からぬことなのかもしれない。

*1:デロングの設定ではもう一人デボラというのもいたが(名前の頭文字がA,B,C,Dになっている)、その後は出てこないのでここでは割愛した。デロングのコメント欄でも、デボラはどうしたんだ、というコメントが散見される。

*2:もちろん、花見酒をこうした経済モデルとして捉えるというのは小生が初めてではなく、世間ではかなり前から既出のようだ。少しぐぐってみても、ここで丁寧な解説がされていて、朝日新聞笠信太郎のようにバブル経済に喩えることの誤りを指摘しているほか、ここでは少しひねりを加えて現実経済の解説に応用されている。また、多分この本も目次からするとそうした見方を扱っている。