説教したがる経済学者たち

大竹文雄氏のブログ経由で、齋藤誠氏のこの論説を読んでみた。

冒頭で

2008年は,マクロ経済学や金融論を専門とする経済学徒にとって試練の年だったと思う。11月19日に一橋大学の兼松講堂で行われた金融危機に関する公開討論の後に,「日本経済が深刻な事態に至ったことについて経済学者として責任はないのか」と問う声に向き合わなければならなかった。

と書かれていたので、ここで紹介したのと似たような話か、あるいはロバート・シラーのように経済学者の責任を認める話か、と思って読み始めたら、予想の斜め上を行く論理展開でのけぞった。

 こうした言い方は,無責任になってしまうのかもしれないが,今般のバブル崩壊に接して,あらためて「バブルはみんなが作り出すもの」という感想を持った。みんな,自分勝手で,虫がよすぎるのである。資産価格バブルがもたらすもっとも深刻な弊害は,政治家や官僚,投資家や経営者ばかりでなく,普通の市民も,欲望のままに,自分から責任ある判断を断念するという思考停止の状態に陥ってしまうことである。さらには,自ら思考停止の状態に陥っておいて,米国発の金融危機でそれがさらけ出されるやいなや,誰も,彼もが,自分の責任は棚上げにして,「米国発金融危機だから」の錦の御旗か,免罪符を掲げて,政府や日銀へのおねだりのオンパレードなのである。

 特に,本来であれば,率先して雇用と技術を守り,深刻な事態に立ち入った責任とそれに対する方策を株主に説明する責任があるはずの経営者の狼狽ぶりは,目に余るものがある。
・・・
 2005年前後からであろうか,「超円安」と「超低金利」という他力を自力と勘違いして,技術的な基盤を無視し,ひたすら規模拡大に走るという愚行に出た。その結果が「世界のトヨタ」や「世界のソニー」の今の惨状なのであろう。「米国発金融危機のせい」などではなく,危機のおかげで経営者の短慮や愚行が明らかになっただけの話である。

つまり、齋藤氏によれば、悪いのは大衆や政府や財界や中央銀行だというわけだ。まあ、経済を構成するのはその人たちだから、経済が悪くなったのもその人たちのせいという論理展開は小学生にでもできると思うが、では、マクロ経済学者としての提言は、と思って読み進めると、最後に以下のように書かれていた。

 保護主義にも行かないが,新たなバブルにも頼らない,という王道こそが,20世紀の人類の失敗を乗り越えて,21世紀に向けて歩み出すということではないであろうか。たぶん,やるべきことは,量的に見れば華やかさがないのかもしれないが,しっかりと質感を持った国民経済を築き上げていくことだけなのだと思う。

「しっかりと質感を持った国民経済」というのは美しい言葉だが、具体的なイメージはまるで湧いてこない。
齋藤氏によれば、政府の成長戦略や、日銀やFRBの低金利政策は間違いなそうなので、企業の経営者は、そうしたマクロ経済の状況を前提としないで経営を行うべし、ということのようだが、どこの国に経済状況を前提としない企業経営というものがあり得るのだろうか? また、氏の批判する政府の成長戦略や、日銀やFRBの低金利政策にもまた、それを支える経済学者がいるのだが、そうした同僚には言及しないのはなぜだろうか? それとも、経済学者というのは経済を実際に動かしている人たちを横から批評しているだけなので、経済政策そのものには一切責任が無く、仲間内で意見が違っていてもそんなの関係ねぇ、ということなのだろうか? そうだとしたら、ケインズの言うように、経済学者は自らの仕事を「他愛無く無用」なものにしていることにはならないだろうか?


また、齋藤氏の論説で気になるのは、その説教臭の強さである。以前、小林慶一郎氏のことを

この人はやたらとモラルのことばかりを言い立てる。経済学者というよりは、宗教家に近い。私は思うのだが、この人は、朝日の記事を書くよりは、教会の牧師になって「誠実に働きましょう」とお説教をする方が向いている。小林は職業選択を誤った。これが最大の誤り、じゃなくて、これが最初の誤り。以後、無数の誤りが、増殖していく。ウィルスのように。

小林慶一郎の東大、通産官僚、朝日新聞論説委員、シンクタンク研究員の華麗なる経歴に騙されるな。 TORA

と皮肉った人がいたが、この批判は齋藤氏にもそのまま当てはまるような気がする。
かつてアルフレッド・マーシャルは「ビールの造り方を醸造業者に教えるのは経済学者の仕事ではない(it is not the business of the economist to tell the brewer how to make beer)」と述べたそうだ*1。企業経営者に経営の心得を説いたり、大衆にモラルを説教したりする経済学者は、仮に自由主義を標榜していても、経済社会を支える人間の精神改造を夢見る点で、実は心情的に宗教家、ないしは共産主義者にかなり近いのではないだろうか*2ポルポトへの道として警戒すべきなのは、山形さんがここで批判したマルクス経済学者ではなく、むしろこうしたマクロ経済学者の方なのかもしれない。


すなふきんさんやkmoriさんが良く日本国民の経済への無理解を嘆いているが、国民全員が経済学をマスターするのが現実的ではない以上、一国の経済政策は、最終的には経済学を専門とする人たちの見識に頼らざるをえない。それは、科学技術政策にすべての国民が通暁するのが不可能な以上、最終的な政策内容については専門家に委ねざるをえないのと同様である。従って、国民の経済への理解を高めるのももちろん重要だが、それよりもまず、専門家たちの知的退嬰を何とかするのが我が国に課せられた喫緊の課題であるように思えてならない*3


もっともこうした問題は、クルーグマンが「If even Nobel laureates misunderstand the issue this badly, what hope is there for the general public? 」と嘆いたように、日本だけではなく米国においても同様なのかもしれない。ただ、やはり経済学者の層が厚いことに加え、経済学者が象牙の塔にこもらず、非経済学者と入り混じってネット界で活発に議論しているため、自浄作用がより強く速やかに働く、という点は羨ましいところである(…そういえば以前、これへのはてぶでもそういった趣旨のことを書いたが)。

*1:cf. マートン・ミラーのこの論文。ラジアー前CEA委員長が指摘するように、その後の企業理論や経営学の発達により、今はそうした仕事をする経済学者(ないし経営学者)もいるが、それでもマクロ経済学者にとってはこの言葉は依然として真実だろう。

*2:対照的なのが、ここで描写されたケインズの姿勢。
(Martin Wolf)「Keynes’s genius – a very English one – was to insist we should approach an economic system not as a morality play but as a technical challenge.」
クルーグマン)That’s the point of my favorite Keynes quote, where he declared of the Great Depression, “we have magneto trouble.”

*3:正直言って、そうした状況下にある学界の大家から、我々専門家の方が官僚より優れているのだ、と、たとえばここで引用された時論のように上目線で力説されても、個人的には鼻白むばかりである。