政策効果の測定と鼓腹撃壌

knzn氏が直近2回のポストで面白いことを書いている。


「合理的な政策」と題された最初のエントリで氏は、なぜ多くの経済学者たちは民間が合理的で政府が非合理的と決めてかかるのか?、と問うている。
氏の回答は、政策の成功が目に見えないから、というものである。政策が成功すれば、インフレも起きず、景気後退も起きない。従って、経済学においては、政府の政策が仮に効果的であったとしても、その証拠を認識できないことになる。反面、非合理的な政策が実施された際に生じる悪影響との因果関係は認識できるから、政府というものは非合理的な存在である、という(誤った)結論を導くことになる*1


続く「非合理的な政策」と題されたエントリでは、今日の目から見れば非合理的であっても、当時はそうは見なされていなかった政策目的を達成したとすれば、それこそが政策の成功の証ではないか、と書いている。具体的な例として、彼は、1960年代終わりの好況を挙げている。今日では、その時の政策はインフレ期待を植えつけたという点で失敗と見なされているが、当時はインフレ期待の定着という概念は知られていなかったので、これはむしろ政策が効果を発揮した例と考えてよいのではないか、ということである。


何だか詭弁染みているが、前者のエントリは、中国の故事の鼓腹撃壌を想起させる。中国の伝説の名君である堯は、老人が「自分の平和な生活には帝は何の関係も無い」と歌っているのを聞いて、自分の政治がうまくいっていることを確信したというが、計量経済分析で計るべき経済変数の変動が見当たらない時は、政治が成功している証拠、というわけである。そうすると、分析できる結果が無いから政治は非合理的だ、と結論づける経済学者は、腹鼓を打ち地面を踏み鳴らして歌っていた老人と同じ、ということになるのだろう。


しかし、実際にそのような「堯舜の世」が現実世界で長く続くわけも無く、良かれと思って実施した政策は、一時的に成功を収めたように思われても、必ず思わぬ副作用を伴う。とはいえ、既知の副作用については当局側も予め対策を打つはずだから、大きな問題となって後々まで尾を引くような副作用は、その時点では問題としてあまり認識されていないような種類のものである。逆に言えば、そうした副作用の出現こそが、政策がその時点でのベストを尽くし効果を発揮したことの顕れ、というのが後者のエントリの主旨である。

そう考えると、今回の金融危機もそれまでの米国の経済政策の成功の証、という逆説的な論理も成り立つのだろうか…。

*1:なお、合理的な為政者のもとでは、目に見えるような現象、すなわちインフレ昂進や景気後退などは、予測不可能である。というのは、もし予測可能ならば、合理的な政策当事者はそれを防ぐ手立てを講じるはずだからである。従って、合理的な政策下で生じたインフレや景気後退は、政策との相関関係が検証できない。