嫌な奴はどこへ行った?

少し前のEconlogエントリで、ブライアン・キャプランが、今は身の周りに嫌な奴(jerk)がほとんどいなくなった、と書いている。jerkとの闘いの連続だった小生のサラリーマン人生から考えると信じられない話だが、キャプランは、どうして自分がそのような幸運な状況に至ったかを分析している。正月休みを終えてまた否応なしに組織の人間関係の中に戻った方も多いだろうが、そうした皆様に参考になる話かもしれない。以下拙訳。

私の人生の嫌な奴はどこへ?

君達は、不愉快で狭量、かつ/もしくは、意地の悪い人間と日々つきあわねばならないかい? 私はそうではない。私の知る限り、身の周りの嫌な奴は驚くほど少ない。経済学マニアとしては、もちろん、ただ自分の幸運を喜んでばかりはいられない。なぜ自分が、事実上嫌な奴のいない世界の一角にいるのかを分析しなくてはならない。
以下は主な仮説。

  1. 私が気づかないだけ
    • 嫌な奴は私の周りにも大勢いる。私が経済学マニアの職業という世界に閉じこもっていて気づかないだけ。
       
  2. 個人的選別
    • 私は嫌な奴をスクリーニングする、ないし追い払うのが上手い。
       
  3. 集団による選別
    • 私自身が嫌な奴を遠ざけるのが上手いわけではなく、嫌な奴を遠ざけるのが上手な集団に属している。
       
  4. 個人的抑止力
    • 私の行動が嫌な奴が近づかないでおこうと思わせる。例えば、私の容赦ない振る舞いが、からかってやろうという気持ちを嫌な奴から失わせるとか。
       
  5. 集団的抑止力
    • 私の属している集団が、嫌な行動を大いに罰するようになっている。
       
  6. 私が驚くほど優れた社交術を持っている
    • 笑うなら笑え! この仮説によれば、私は他の人に比べ、嫌な行動を招きにくい。最もわかりやすい方法は、私が常々他人のちょっとした攻撃的言動を無視し、私自身のちょっとした攻撃的言動を謝ることにある。私は他人の無礼は意図的なものではないと考える半面、自分が何も悪いことをしていなくても「ごめんなさい」と言うことを躊躇わない*1。結果として、他人との意見の不一致が非同期しっぺ返しに発展することはまず無い。
       
  7. 私が属している集団が驚くほど優れた社交術を持っている
    • これは意味をなさないね。
       
  8. ベッカー的な隔離*2
    • 私が嫌な奴の少ない集団にいるわけではなく、似たような心性の持ち主と一緒にいるので、結果として平和に共存できている。
       
  9. 私が嫌な奴である、ないし、嫌な奴の集団に属している
    • 嫌な奴が目に付かないのは私が気づかないからではなく、それを正常と見なしているから。
       

参考データ:私の人生から嫌な奴が少なくなったのは大学に入ってから。嫌な奴が事実上いなくなったのはジョージ・メイソン大学に雇われてから。だから、年齢と共に鈍感になったのではない限り、項目1は除外できる。そして多分項目7も。項目8は魅力的だが、同じような心性の持ち主の集団は、しばしば嫉妬や爪弾きの温床にもなるよね。


君はどう思う? そしてもしそれが正しいとしたら、私の経験を大量生産するにはどうしたら良い?


P.S.質問:私の印象では、多くの経済学者は、嫌な奴の少ない環境にはいないようだ。経済学ブロガーの意見も聞かせてくれないかい? もちろん、嫌な奴が一挙一動を見張っているというなら、匿名でも構わない。:-)


ちなみにコメント欄で個人的に面白いと思ったものは、以下の通り。

タロックは嫌な奴として有名だったのでは? ブライアンが良い人だということは確かな筋から言えるけど、ジョージ・メイソン大学の教授の何人かは、馬鹿ではない学生から見て、絶対的に嫌な奴――少なくとも彼らに対しては――と思われているよ。

Where Are All the Jerks in My Life? - Econlib

ステータスが上がれば嫌な奴はいなくなる――あなたの目に見える嫌な奴は。

Where Are All the Jerks in My Life? - Econlib

高校と高校以降を単純比較した場合、多くの高校生は基本的に閉じ込められている状況にあることを認識すべき。生産的活動を欠いた状態では、彼らは隣人にちょっかいを出す。ジョージ・メイソン大学経済学部は皆が居たい場所のように見える。
ジョージ・メイソン大学の経済学者は「我々対世界」の態度から恩恵を受けているのでは? もっと普通の経済学部にはそのような同士愛は無いだろう。Russ RobertsとDan KleinがEcon Journal Watchを嘲笑うのを聞くにつけ、一緒になって外の世界に文句を言うのは、お互いに対し文句を言うことの代わりになるのかな、と思う。

Where Are All the Jerks in My Life? - Econlib

君達は、不愉快で狭量、かつ/もしくは、意地の悪い人間と日々つきあわねばならないかい? 私はそうではない。私の知る限り、身の周りの嫌な奴は驚くほど少ない。

危ない、危ない、危ない。私の考えでは、嫌な奴のいない環境にいると現実との触れ合いが少なくなり、良い経済学者たらしめる能力が減耗してしまうよ。だから外に出て本当に嫌な奴を見つけて絡もう。

Where Are All the Jerks in My Life? - Econlib

この後に、自分の業界(投資銀行業務)には嫌な奴がいっぱいいるから、キャプランの研究もしくは訓練のために必要なら派遣するよ、というコメントがあったのには笑った。
また、ジョージ・メイソン大学の経済学者は、他大学に比べて政治志向が乏しいためではないか、という意見もあった。


キャプランの分析では、嫌な奴の内訳までは踏み込んでいないので、その点が少し物足りない気がする(そもそも嫌な奴がいない、ということを前提しているのだから仕方ないのかもしれないが)。嫌な奴と一口に言ってもいろいろな種類があり、それによって遠ざけ方や対応の仕方が変わってくるだろう。小生の考えでは、嫌な奴は、まず、以下の2種類に大別されるように思われる*3

  • 性格が元々ひねくれている
  • 仕事、もしくは個人的なストレスのために周りに当たる

前者ならば、なるべく接触しないか、接触の必要が生じた時はその性格の発動スイッチを押さないように気をつけるしかない(万一スイッチを押してしまった場合は身を屈めてやり過ごすことになる)。後者の場合は、そのストレスが一時的なものならば、それが落ち着くまで待てば良い。ただ、恒久的なものだと話は厄介である。
これまた小生の考えになるが、仕事について恒久的なストレスを感じて周囲に当たるケースは、概ね以下の3つに分類できよう。

  • 能力的、もしくは性格的に元々仕事が適合していない。
  • 能力的にはまずまず仕事をこなせているが、自分に求める理想が高すぎるので、そのギャップで苛立つ。
  • 自分の仕事と能力には満足しているが、周囲の人の仕事の水準が自分の理想に合わないので、そのギャップで苛立つ。

1番目と2番目のケースでは、自分で自分を変えてもらうか、異動もしくは転職で合う仕事を見つけてもらうしかない。人事権者で無い限り、周囲ができることは限られるだろう。
問題は3番目のケースで、本当に周囲の水準が低いのであれば、もっと水準の高い職場に移るべき、という意味でやはりその仕事に適合していないと言えるだろう。だが、もっとありそうなのが、自分の能力を過大評価、周囲を過小評価している場合である。そういう場合は、いたずらに現実に目を向けさせようとしても認知不協和を起こすだけに終わる可能性が高いので、周囲は下記のような感じでうまくあしらうしかないだろう。

室戸─菊井は自分が切れ者だと自惚れている、だから……
椿──そこんとこをうまくなでてやれば目を細めて喉を鳴らすっちゅうわけだ

[1089] 美化されたセルフイメージ - 日刊デジクリ


また、理想が高すぎる、という点については、以前ここに書いたように、経済学的思考を身に付けてもらう、という手もある。例えば、小生が以前所属していた部署で、共有ファイルサーバのディスクが常にいっぱいになってしまい、その管理者が皆に容量削減を呼びかけてもうまくいかずにカリカリしていたことがあったので、これは典型的な共有地の悲劇なんだよ、我々の部署の人間が特に世間の平均に比べ非協力的なわけではないんだよ、と説明したことがあった。


なお、もちろん、嫌な奴だけど本当に優秀で、周りがきちんとついていけば水準の高い仕事ができる、という場合もあるだろう*4。一流の人間が必ずしも人格者ではないのはよく知られている通りで、上記のEconlogのコメントにあったタロックもひょっとしたらそうなのかもしれない。

*1:そういえば稲葉さんの11/20エントリのへのコメントに「バカに対しては謙る、これが最適。稲葉先生はそこまで悟っていらっしゃるのですね。」というのがあったな…。もう一つこれを読んで思い出したのは、この映画で、嫌がらせを受けたユダヤ人の人の善い主人公が、わざとじゃないんだろう、というシーン。

*2:cf. ここ

*3:もちろんその組み合わせ、という場合もある。

*4:小生は幸か不幸かあまりそういうケースに遭遇したことがないが。