先日、稲葉氏から、経済学と物理学に関する小生の以前のエントリ(こことここ)にTBを頂いたが、Economist's Viewで関連する話題が取り上げられていたので、かいつまんでその内容を紹介してみる。
取り上げられたのは、ギャヴィン・ケネディという経済学者のブログエントリ。
HPによると、この人は、経済の研究の傍ら、国防や交渉に関する研究をしてきた人らしい(交渉に関する著書の邦訳もあるほか、交渉術をトレーニングする会社まで作っている)。
また、「専門」の経済学では、アダム・スミスに関して研究してきたようだ(前述のHPではそれに関する著書が紹介されている)。今回、Economist's Viewが取り上げた内容は、(余技方面ではなく)後者のアダム・スミスに関連した話。
ケネディは、ここで、マッシモ・ピグリウッチという進化生物学者*1のブログエントリを取り上げている。そこでピグリウッチは、以下のような主張を展開している。
- 今回のサブプライム危機について、グリーンスパンは「世界がどう動くかを明らかにするという重要な機能構造を持つと私が認識しているモデルに欠陥が見つかった」と述べた。その彼のモデルの欠陥のお蔭で、世界中で何億人という人が苦しんでいる。
- 経済学は物理学をモデルとしてきたが、そのことに(グリーンスパンの言葉を借りれば)「欠陥」があったのではないか。
- 経済学者も完全合理性や完全情報が現実離れしていることに気づいてはいた。しかし、そうしたモデル化により物事が把握しやすくなる。最近は、心理学や社会学など「ソフト」な科学を取り入れた行動経済学も登場した。
- しかし自然淘汰は、最適化プロセスではなく、その場凌ぎの積み重ねに過ぎない。多くの資源を無駄にし、しばしば袋小路に至る(これまで存在した種の99%が絶滅したことを想起されたい)。この適用は、合理性パラダイムより現実を良く描写するかもしれないが、話がより乱雑になることも確かだ。
- 社会学、心理学、環境学、そして進化生物学により、過去の出来事(恐竜の絶滅、ドットコムバブル)の生じた複雑な因果関係を解きほぐして説明することができるかもしれない。しかし、それらの手法により、経済学者が欲している良き科学の証、すなわち将来予測を可能ならしめるのは無理だ。
- ここで言う予測は、一般的な予測ではなく、個別具体的な予測のことである。気象学は、毎年12月〜2月のNY市の気温が低いということは高い確率で予測できるが、明日コートが必要か雨傘が必要かについてはほとんど当てにならない。同様に、環境学者は、棲息領域の縮小といった環境変数の変化によって絶滅確率が上昇するとは言えるが、いつ、どの種が絶滅するかを予測はできない。
- 株価予測でも、景気の良い時にこういう株が上がる、悪い時にはこちらの株が上がる、といったことを言うモデルはあるが、明日どの株を注文すれば良いか決めるには役立たない。
- こうしたことは、経済学、社会学、心理学、環境学、進化生物学の失敗を意味するのではない。物理学(の大部分)とは違い、複雑で履歴効果のある事象を扱う場合には必然的に発生するものなのだ。従って、物理学が他の科学を測る黄金律だという考えは捨てなければならない。政府の予算配分担当省庁がそれを理解してくれれば良いのだが…。
ケネディは、このピグリウッチのエントリを、新鮮な風を吹き込むもの、と賞賛し、経済学者の予測能力、および、できもしない予測をすることを、ローマ時代の占い師に喩えてこきおろしている。
また、ケネディは、現実経済を理解することよりも、数学モデルを理解することの方が、経済学者の能力として重要視されてきた、と現在の経済学界を批判する。そうした状況に陥ったのは、人間の複雑性や予測不能性を捨象した美しい数学モデルを数世紀かけて発展させることが経済学の発展だ、という非科学的な神話に経済学者たちが取り込まれた結果である、と指弾する。
そして、ピグリウッチのエントリ中の自然淘汰の喩えに絡め、アダム・スミスの「市場の見えざる手」という言葉は、本来はスミスが論敵としてきた独占企業のプロパガンダに都合よく利用されてきた、という彼の持論を展開している。
しかし、ピグリウッチとケネディの経済学批判も、主流派の経済学者から見れば「想定の範囲内」という気もする。
経済学と進化生物学、と言えば、真っ先にクルーグマンのこの講演録(山形浩生氏訳)が思い浮かんだので、今回読み直してみたが、両者の批判するようなポイントは12年前のこの講演で既にクルーグマンはきちんと認識していて、その上で進化生物学と経済学の類似性を論じているように思われる。彼のお気に入りの「モデルはメタファーに過ぎない」というフレーズが、そうした認識を良く表していると思う。
実際、この講演の中の以下のクルーグマンの言葉は、ピグリウッチ=ケネディ批判を先取りしているとも言える。
経済理論はしばしば、物理学から霊感を引き出すとされており、もっと生物学みたいになれと言われています。もしそうお考えでしたら、二つのことをやってほしいと思います。まずは進化理論の本を読むこと。たとえばジョン・メイナード・スミスの『進化遺伝学』とか。ミクロ経済学の教科書そっくりなので驚きますよ。第2に、単純な経済学上の概念、たとえば需要と供給を物理学者に説明してみることです。経済学者の思考様式すべて、個人の意志決定から全体の物語を構築するというやり方は、かれらの発想とはまるでちがうのがわかります。
さて、さはさりながら、最大化と均衡を便利なフィクション以上のものと考える経済学者は確かにおります。そういう人たちは、それを文字通りの真実と考えるか——日々の経験の現実を見てなんでそう思えるのか、かなり理解不能なんですが——あるいは経済学のあまりに確信にある原理なので、いささかなりとも曲げてはいかん、それがどんなに便利だろうと絶対ダメ、と思っているかのどっちかです。
ひとことで、わたしは経済学者たちが進化理論家から重要なことを学んでくれたら、経済学はずっと生産的な場所になると思っています。モデルはメタファーでしかなく、だからモデルを使ってもモデルに使われちゃいけない、ということです。
…この伝で行くと、グリーンスパンはモデルに使われていた、ということになるのかもしれない。
また、確かにフリードマンは経済モデルにとって予測が重要、と述べたが、それはあくまでも一般的な予測の話であり、個別的な予測についての話ではないと思う。個別的な予測――ピグリウッチが例に挙げた個別株価の予測がその最たるものだが――が経済学で可能になる、と主張している経済学者はいないだろう*2。
以前、ここで「20年経っても、経済学者と物理学者の距離はあまり縮まっていないようだ」と書いたが、経済学者と進化生物学者の距離も、クルーグマン講演から12年経ってもあまり縮まっていないようだ。