金融システム工学

という言葉があるかどうか知らないが、スペンスの少し前のエッセイを読んで、彼が提案しているのはまさにそれだな、と思った。


彼の提案の肝は下記の部分である。

I see two complementary approaches. One is to segregate a sector of financial services through regulation, restricting its lines of business and setting capital requirements to ensure that the likelihood of an inability to function in processing transactions and channeling short-term capital is minimal. This would be a sector that is in effect a regulated public utility.


The second approach is to anticipate that emergency channels will occasionally be needed when there is widespread distress in the rest of the financial sector, and set up such channels in advance. Then deployment would be automatic and not a source of risk to the real economy. Of these two options, the first is likely to be perceived as preferable.

ここで彼は二つの案を出している。一つは、日々の決済や短期資金の融通をする部門を他と切り離し、万一の事態になっても機能が損なわれないようにすること。もう一つは、非常時に自動的にそうした機能を肩代わりする仕組みを用意しておくこと。


コンピュータシステムで喩えれば、前者は、基本機能部分をファイアウォールを張り巡らせるなどして他と隔離することに相当する。後者は、非常時のバックアップシステムを用意しておくことに相当する。つまり、意図的かどうかは分からないが、事実上、彼は、コンピュータシステムを構築する時に通常実施されるセキュリティ施策を、金融システムに応用しよう、と提案しているのである。
彼の言うように、二つの対策は相補的なもので、きちんとしたコンピュータシステムならば両方の対策を施してあるだろう。ただ、後者のバックアップセンタの構築がより手間なのは確かである(いろいろなところを二重化しなくてはならないので)。スペンスも、前者の案の方が好まれるだろう、と述べている。


池田信夫氏は、このスペンス案を規制強化だとして批判し、ここで紹介したように、金融商品の提供の仕組みというミクロの部分での対策を対案として提示している。もちろん、そうした方向の議論も建設的だが、とはいえ、それによって、システム全体について何か手を施すべき、というスペンスの問題提起の重要性が些かも減じられるわけでは無い。それは、コンピュータシステムにおいて、個々のアプリやハードの信頼性を高める手を打ったとしても、システム全体の対策を怠ってよいことにはならないのと同様である。言い換えれば、(池田氏の提案する)金融工学的な対応をしたとしても、(スペンスの提案する)“金融システム工学”的な対応は依然として必要なのである。


スペンスのこのエッセイは、マンキューも批判している。ただ、批判のポイントは池田氏と違っていて、スペンスが最後の方で提案した「早期警戒システム」にある。そのシステムが予測システムを意味するなら、実現は不可能、とマンキューは一刀両断している。
しかし、再びコンピュータシステムとのアナロジーで考えてみると、マンキューのこの批判は少し的外れのように思われる。コンピュータシステムにおいても、早期に不具合を発見する仕組みは現在いろいろとある。だが、いつどの部品やアプリが駄目になるか、あるいはシステムがダウンするか、を事前に予測することは、(マイノリティ・リポートの世界でない限り)やはり絶対に不可能であり、それが可能と謳っているシステムは一つも無い。その代わり、不具合が起きたらすぐにメッセージを上げ、可能ならば自動修復し、それが無理ならばオペレータ、担当者、メーカCE/SE、と対応先をエスカレーションして、システム全体への影響を極力最小化しようとする仕組みになっている。スペンスが提案しているのは、まさにその金融システム版と思われる。


スペンスは、金融を、電力、輸送、通信と並んで現代の基幹産業である、と論じている。そう考えると、確かに今の金融サービスは、他の基幹産業の提供するサービスに比べて不安定さが目立つ。電力で言えば、数年に一回大停電が発生し、その後数ヶ月に亘って電力供給が不安定になるような状況であると言える(しかもその影響範囲は一都市や一国に留まらず、全世界に波及する)。こうした不安定さを解消するには、システム工学的なアプローチは避けて通れないだろう。今度のNEC委員長もそのあたりは分かっているようなので(cf.ここでの航空産業の喩え)、期待したいところだが…。



P.S.
スペンスのノーベル賞サイトの自己紹介を見ると、Siebel SystemsというCRMアプリ会社(現在はOracleに買収されている)の役員経験があるようだ。あるいはそこでコンピュータシステムに対する感覚が養われ、それが今回のエッセイに反映されたのかもしれない。逆に、池田氏やマンキューにはそうした皮膚感覚が無いのだろう。