クルーグマンブログのこのエントリを見て驚いた。ブルームバーグの記事(抄訳[もしくは旧バージョンの訳?]はこちら)を引用しているが、その記事の内容とは、Qレシオからすると米国の株価はまだ下がる、というものだったからだ。
Qレシオと言えば、バブル期の日本の株価を正当化する指標として使われ、その後のバブル崩壊と共に顧みられなくなった指標、というのが日本での一般的な評価だと思う。そのあたりの経緯については、山崎元氏の解説が詳しい。
まず、Qレシオの定義をそこから引用してみよう。
「Qレシオ」をご存じない方も多いだろう。教科書に載るような正式な用語ではないから、知らなくても問題はないのだが、一言でいえば、資産を時価で評価して計算したPBR(株価純資産倍率)のことだ。PBRでは、まさに「(プライス・トゥー・)ブック・バリュー」というがごとく帳簿上の一株株主資本に対する株価の倍率を計算するが、この際に企業が保有する土地などの資産を時価で計算したものが「Qレシオ」だ。
ちなみにブルームバーグ記事では、Qレシオをトービンの開発したもの、としているが、山崎氏は
なお、経済学部の学生読者のために注釈しておくが、「Qレシオ」は経済学でいう「トービンのq」にちなんで命名されたものだが、後者は、企業価値(「時価総額」とは異なる)を企業設備の再取得価値(同等の効果のあるものを取得するコスト。資産の売却価格とは異なる)で割った比率であり、内容的には別物だ。
とトービンのqとの差異を強調している。
さらに、バブル期のQレシオによる株価の正当化の問題点を以下のように指摘する。
80年代のQレシオの理屈付けは、(1)(不動産価格から推測するとあるはずの)収益の飛躍的改善の可能性が→(2)不動産価格に反映しているが→(3)株価にいまだ反映していない→(4)したがって株価はまだ上昇する、といったロジックであった。
このロジックのどこが間違いであったかというと、収益の改善見通しがまず不動産価格に反映して、株価の反応が遅れることの不自然さにあった。常識的に考えても、株式の方が取引コストが安くて、流動性も高いし、参加者が多いマーケットだから、企業収益の飛躍的な改善が予想されるならこれはまず株価に反映すべきだった。この点は、直接の証明ではないが、バブルの崩壊が、株価にあっては90年の年初からで、不動産価格(全国レベルの)にあっては92年くらいからであったことを見ると、納得していただけると思う。
この批判は、裏返せばQレシオによる現在の米国株価の評価にもそのままあてはまるだろう。つまり、ブルームバーグ記事で紹介された分析では、収益の悪化見通しがまず企業の資産価格に反映して、その後に株価に反映されることを仮定しているのである。しかも、その下がる水準も、何らかのモデルを用いて割り出したわけではなく、経験則から以前の弱気相場の底と同じ水準まで下がるはず、としている*1。
なお、こうしたQレシオ(ないし株価純資産倍率)をそもそも株価評価に使用することの理論的な問題点について、「日本の株価・地価―価格形成のメカニズム」の中で、小林孝雄東大教授は以下のように指摘している*2。
株価が適正水準にあるかどうかは、株価が企業の経営力に対する市場の評価を、正しく映し出しているか否かで判定すべきものである。そこでは、企業の現在・将来の経営力を所与として、株価が問われる。これに対して、株価の企業解散価値に対する倍率は、株価を所与として企業の経営力を問う。資源を有効に利用できる企業は、資産価値以上の企業評価を生む。資源を生かせない企業は、資産価値以下の企業評価を得ても、不思議ではない。株価純資産倍率は、M&Aのための投資尺度ではあっても、株価が適正かどうかを問う尺度ではありえない。株価の理論値が純資産時価であるというのは、少なくとも経済学の理論からは出てこない主張である。
こうした批判を想定してかどうかは分からないが、ブルームバーグ記事で取り上げられた分析者(Russell Napier氏)は、投資尺度として景気循環調整済み10年PER(株価収益率)も併用して、今後の下落相場という結論を導き出した、としている*3。
それにしても、(少なくとも日本では)とっくに歴史の彼方に葬り去られたと思われた指標が、よりによってリクスバンク賞受賞の最中のクルーグマンから飛び出してくるとは思わなかった…*4。
*1:一方、既に底に達した、と言う人(PIMCOのビル・グロス)もいる。これは、Qレシオの計算が必ずしも容易ではないため、分析者によって異なる値が弾き出されることを示している。実際、ここでは、底に達した、というPIMCOの計算の曖昧性について批判している。
*2:ただ、バブル崩壊からしばらく経った後でも、この小林氏の批判をさらっと受け流してQレシオによる株価の分析を行なった学者もいるが。
*3:記事には明記されていないが、彼の分析の元ネタはSmithers & Co.と思われる。同社HPのこのページでは、Qレシオの指標としての価値について解説しているほか、10年PER(cyclically adjusted PE=CAPE)の有用性についても触れている。同サイトのこことここではチャートが描画されているが、このチャートのQレシオの動きはNapierの描写に概ね沿っている(Napierは現時点のQレシオは長期的な平均に近づいていると述べているが、Smithers & Co.の平均で基準化した対数チャートは現在ほぼ0となっている。また、NapierはQレシオが過去0.3〜3の範囲で変動してきたと述べているが、それを長期的な平均0.64で基準化すると0.47〜4.7となり、対数では-0.76〜1.54の範囲となる。それはチャートのQレシオの動きの範囲と大体一致している)。なお、チャートの注意書きでは、10年PERのソースはロバート・シラーのサイト(多分ここ)と書かれている。
*4:ちなみにクルーグマンブログの写真の「人」はこれらしい(写真のプロパティを見るとURLがhttp://www.princeton.edu/~pkrugman/star_trek_Q.jpgとなっている)。