今日は、昨日予告した通り、ワルドマンのこのエントリをざっとまとめてみる。
金融商品を語る上では「構造」と「力」「内容」を区別する必要がある。すなわち、一口に金融商品の透明度が高いと言っても、以下の二つの意味があり得る。
たとえばMBSは、構造的には透明だが内容的には不透明。というのは、関係するモーゲージすべてのパフォーマンスが把握できればキャッシュフローがきちんと計算できるが、不安定な住宅市場における何千ものモーゲージのパフォーマンスを評価するのは実際問題としては不可能なので。
一方、株式は、構造的にも内容的にも不透明。
構造的な透明性は、推進されるべき。標準化された契約文書が存在すれば、契約の片言隻句に潜む陥穽を避ける労力が節約できるので、有用だろう*1。といっても、標準化された契約以外を禁止すべき、というわけではない。当局としては、透明性の劣る契約については相応の罰則を適用し、透明性の高い契約についてはお墨付きを与える、といった形で、良い商品が市場に広まるのを助けるのが望ましい。その場合の良い商品とは、一般投資家の観点から評価することを忘れてはならない。つまり、問題が起きた時に市場の危機を招かないようにするのが肝要、ということだ*2。そのためには、定期的な評価額の報告、適切な担保の設定、ポジションの輻輳化の防止、といった点――それらは結局は取引所創設につながるのかもしれないが――を重視すべき。
それに対し、内容的な透明性はそれほど推進すべきではない。経済の分析により得られる情報というのはそれなりに元手が掛かっているものであり、その代償として儲けを得ることは正当。
たとえば、もし今、株式が新しい金融商品として市場に現れても、内容的な透明性にこだわる当局ならば許可しないに違いない。株式よりも不透明なのは不換紙幣だけだ*3。
とはいうものの、構造的に透明で内容的に不透明な金融商品により、今回の危機が引き起こされたのも事実。そうした商品を禁止するのではなく、オリジネータが結果にきちんと経済的な責任を取るような仕組みにするべき。つまり、セーフハーバールールを撤廃して、経過責任だけでなく結果責任も取ってもらうようにする。