政府の役割

以前のエントリに書いたように、市場と政府の役割分担は経済学の永遠のテーマであろう。今日はそのテーマについて思いつくままに書き連ねてみる。

<経済政策>

政府が実施する経済政策(財政政策や規制策)に対して巷間よく批判されることは、ざっと以下のようなところだろう。

●時間の問題
政府は意思決定にどうしても時間がかかる。議会を通す必要があると猶更だ。経済政策が効果を現すにはタイムラグがあるのに、そもそも実施までに時間がかかるのではどうしようもない。
●実効性の問題(リカードの中立命題)
政府が何かやろうとしても、人々がそれを予想して折り込んでしまうので、実効性が乏しい。典型的な例が、今減税や財政政策で景気を刺激しようとしても、将来の増税を見越して人々が笛吹けども踊らずとなる、というリカードの中立命題。
●実効性の問題(妥協の産物)
政府や議会で政策を立案する際、いろんな人の意見を取り入れているうちに、妥協の産物でわけの分からない政策になってしまう。
●実効性の問題(バラマキ)
政府や議会で政策を立案しているうちに、いろんな利害関係者の要望を吸い上げて、ただのバラマキになってしまう、ないし、ノイジー・マイノリティにばかり手厚い政策になってしまう。

ただ、中央銀行が実施する金融政策は、こうした弊害をかなり免れている。そのため、現代の経済学では、政府の財政政策よりも、金融政策を経済安定化の手段として重視する*1


<政府事業・産業政策>

何か新しいことをやろうとするのは、ナイトの不確実性への挑戦である。それは、大抵失敗する。しかし、万が一うまくいったときの成功報酬が大きいので、平均的に失敗するとしても、新しい事業に挑戦する起業家は後を絶たない(=アニマル・スピリット)*2

そうしてみると、政府事業や産業政策は宜しくないと巷間言われるわけも見えてくる。つまり、政府事業や産業政策もナイトの不確実性に挑戦して新しいものを生み出そうとするわけだが、政府がこうしたことに乗り出すのは、以下の点が問題になる、というわけだ。

  • 使われるのが税金。従って担当者にコスト意識が芽生えにくい。
  • 市場による規律付けがないため、ともするとお役所仕事に堕してしまい、本来必要とされる創意工夫が編み出されない。
  • 失敗が明らかになっても、政府がやっているという面子があるので、撤退せずぐずぐずと続けてしまう。コスト意識も市場の監視の目も無いため、それが許容されてしまう。
  • 民間企業であれば市場での競争によりプレイヤーが入れ替わるという新陳代謝の効果が期待できるが、政府主体ではその効果は無い。
  • 市場商品ならば、価格を介して需要に関する情報を得ることができ、それを事業にフィードバックできるが、政府主体ではその効果は期待できない。
  • 事業というのは大抵思ったとおりにいかない。成功と言われる事例でも、実は当初の目的とは違う思わぬ副産物が成果になり、その後の主力商品となっているケースが多い。その場合、開発した主体とその技術によって成功を収めた主体が違うことさえある(ex. XeroxAppleIBMMicrosoft)。政府主体ではそうした事態への柔軟な対応ができにくい(cf. ARPANETとインターネット)。

なお、Voiceの10月号で若田部昌澄氏がこのテーマに関係する記事を書いている。若田部氏自身の見解はオーソドックスなものだが、その一方で、Dani Rodrik氏の産業政策に対し肯定的な研究も紹介している。また、本ブログのこのエントリも参照。


<外部性、制度整備>

よほどのアナーキストでない限り、政府がまったく経済に関与しない方が良い、と主張する者はいない。よく言われるのが、市場ではうまく解決できない負の外部性の問題については政府が主体的に関与すべき、ということである。
また、最近よく言われるもう一つの点は、法律の執行や監督機関といった制度は政府なくしては存在できないが、そうした制度の整備こそが、そもそも市場がうまく稼動する前提となる、ということである。それらの制度の未成熟が、アフリカ諸国の経済的離陸を妨げ、ロシアでの市場経済移行を失敗させた要因である、としばしば主張されるのは、サックス=イースタリー論争や、本ブログで取り上げた国際経済学者同士の論争(たとえばこれこれ)で見た通り。


所得再配分社会保障

上記の外部性への対応や制度整備への政府の関与の必要性については、経済学者は概ね合意していると見ていいだろう。しかし、所得再配分社会保障制度についてはそうではない。いわゆる保守派の経済学者にはこれらの廃止を訴える人がいる一方、リベラル派の経済学者はその必要性を強く訴える。


<属人性>

ケインズハーヴェイロードの前提が顧みられなくなって久しい現在、あまり声高に主張する人はいないが、政府の経済政策も、かなりの部分、属人性の問題に帰着する。産業政策も、人の宜しきを得て進めれば、成功しないわけではない。毀誉褒貶はあるにせよ、シンガポールの発展はリー・クアンユー抜きにはありえなかっただろうし、マハティール抜きに現在のマレーシアが存在したかは疑わしい。中国のトウ小平、韓国の朴正煕も然り。
もちろん、一方ではジンバブエムガベイラクフセインウガンダのアミンや北朝鮮金親子などのDQN独裁者が世界にはひしめいているので、統計的には開発独裁が経済成長に有効という結果はどう頑張っても出てこないだろうが。


90年代の米国経済の繁栄も、グリーンスパンという個人の存在抜きには語りえない。裁量的な金融政策に否定的だったフリードマンも、グリーンスパンの手際を前にして最後にはシャッポを脱いだと言う*3
また、グリーンスパンだけではなく、クリントン大統領、およびクリントン政権のルービン、サマーズといったベスト・アンド・ブライテストも、その経済繁栄に大いに貢献したと言ってよいだろう。グリーンスパンサブプライムの問題で退任後に味噌を付けた格好になったが、同じ現在の状況下でも、もし政権がブッシュではなくクリントンだったら、事の展開はまたかなり違っていたのではないだろうか*4


平均的には失敗するのだから産業政策はやめてしまえ、という今の経済学の標準的見解は、金融政策は平均的にはうまくいかないのだからk%ルールで置き換えてしまえ、というかつてのマネタリストの主張と同様、やや乱暴なような気がする。
現在の金融政策が、「一国の経済の良心」と呼ばれる中央銀行総裁の属人性ないし裁量に頼る部分を頭から完全否定するのではなく、それにテイラールールやインフレターゲットといったルールを取り入れる、といった形で深化してきたのと同様に、産業政策についても、単に否定するのではなく、成功する手法について研究する余地があるように見えるが、どうだろうか。

*1:たとえば以前のエントリで取り上げた経済政策についてのマンキューフリードマンテイラーブランシャールモジリアニの意見や、ここにまとめられているクルーグマンの見解――中でもこれこれこれ。なお、金融政策の財政政策に対する優位性には、ここで挙げた非ケインジアン的な論点のほか、ケインズ経済学の国際版と言えるマンデル・フレミング理論から導出される論点もあることに注意。

*2:以上、この本からの受け売り。

1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)

1997年――世界を変えた金融危機 (朝日新書 74)

*3:同上。

*4:たとえばサーベンス=オクスリー法のオクスリー氏がぶちまけたこんなことは起きなかったかも。