サックス VS シュライファー

昨日のエントリで紹介した“HOW HARVARD LOST RUSSIA”(Institutional Investor Magazine, January 2006)から、今日は、サックスとロシアとの関わり、およびシュライファーとの確執について書かれた箇所を翻訳してみる。

1991年11月、チーム*1は別の恐れ*2、すなわち悲惨な失敗の恐れに直面していた。「ロシアは人類史上最大かつ最も複雑な民営化プロセスに乗り出そうとしていた…その法的基盤をまったく欠いた状態で。」ガイダルは後に「Days of Defeat and Victory」*3でそう述懐している。彼はグループを「カミカゼ・チーム」と名付けた。


チームにはいくつかモデルがあった。既に放棄されていたものの、500日計画は依然として公の場での議論の中心だった。また、1980年代終わりから資本主義の実験を始めたポーランドという例もあった。


ポーランドの経済改革を指導したハーバード経済学部教授ジェフリー・サックスは、少年のような外見の35歳で、爆発的なエネルギーと気の短い性格の持ち主だった。経済学の神童で、まだ学部時代にPh.D.の資格試験に合格し、誉れ高いハーバード・ソサエティ・オブ・フェローの会員となった。彼は経済学部のテニュアを29歳で得た。


サックスは、ポーランドの連帯が1989年8月に政権を取る前から助言を行なっていた。彼は同じくハーバード出身の経済学者デビッド・リプトンを呼びよせた。リプトンはサックスの教え子で、1980年代の大半をIMFで過ごした。1990年1月1日、サックスとリプトンの助言に従い、ポーランド政府は「ショック療法」という名前で知られることになるすべての財産・資産の公有から私有への急速な転換政策を導入した。最初のモノ不足とインフレの後、すぐにかつてないほど多様かつ多量な商品とサービスが流通し始め、価格も落ち着いた。


ロシアの改革者たちは、ポーランドの成功を羨んでいたものの、自分たちの任務がはるかに困難なものになることを知っていた。「ポーランド社会主義が崩壊した時、ある世代の人々は、市場、市場制度、私有制度が何たるかをまだ覚えていた。」とガイダルは2003年に出版された「State and Evolution: Russia's Search for a Free Market」*4に書いている。「ロシアにはそういった経験が無かった。1991年、ロシア国民の大部分は普通の小売店を見たことがなかった。」


それでも、ポーランドの実験は世界的に知られていたので、モスクワがサックスに手を伸ばすのにそれほど時間は掛からなかった。サックスは1991年後半、ソ連解体とほぼ同時期に、ロシアの正式な助言者となった。11月には、ガイダルはサックスとリプトンに彼の新しい経済チームに協力するよう依頼した。


・・・
1991年の夏から秋にかけてモスクワにいたハーバード大教授はサックスだけではなかった。少なくとも4つのハーバードの関係機関が代表を送り込んでいた。すなわち、ジョン・F・ケネディ・スクール、ロシア研究所、HIID、そして経済学部。ケネディスクールを学長として現在の形に作り上げたグレアム・アリソンは、500日計画のバージョンアップ版を、その策定者の一人であるリベラルな経済学者グリゴリー・ヤブリンスキーと共に推進していた。ハーバードの伝統あるロシア研究所の所長マーシャル・ゴールドマンは、数十年にわたってソ連を頻繁に訪れており、各政党に助言を提供していた。サックスは、ポーランドでの経験のお蔭で、こうした著名人の中でも第一人者として台頭していた。モスクワで彼はハーバードのもう一人の同僚アンドレイ・シュライファーに出会う。シュライファー世界銀行からモスクワに派遣されていたが、その時サマーズが一時的にハーバードを離れ、世銀のチーフエコノミストを務めていた。シュライファーは他の西側の人間にはない強みがあった。彼は1961年ロシアの生まれで、ロシア語に堪能だった。彼の両親は、国家に選ばれた技術者だった。シュライファーは幼い頃から野心家だった。6歳の時の写真では、彼はソ連陸軍の将軍の格好をしている。ある友人がモスクワで最高の学校に転校した時、彼は自転車でそこに駆けつけ、校長が彼もそこに入学することを認めてくれるまで帰ろうとしなかった。


シュライファーヘブライ移民支援協会の助けにより1976年にニューヨークのロチェスターに移住する。彼は後に、英語は大部分人気番組チャーリーズエンジェルを見て覚えたと言っている。彼は数学に優れ、ハーバードに入学した。2年生の時に彼はサマーズのもとを訪れ、若き准教授が書いた論文の誤りを指摘した。二人のノーベル経済学賞受賞者の甥であるサマーズは、すぐにシュライファーを自分の手元に置いた。サックスと同じく、サマーズはハーバード史上最も若くしてテニュアを得た経済学者の一人だった−−サックスもサマーズも同じ年にテニュアを得た。サマーズはシュライファーに自分と同じような道を歩ませ、二人の厚い友情はサマーズが1991年に世銀に行った後も続いた。


サックスとサマーズの間には、そもそも失われるべき友情が無かった*5。サックスとサマーズはテニュアを得た時から神童同士としてライバル関係にあった。それぞれが自分が部屋で一番賢くあらねばならないと考えていて、教授会で二人が揃うと、決まって反感に彩られた激しい議論の応酬があった。シュライファーもまた似たような性格の持ち主であり、この自信家の新人がモスクワでサックスに出会った時、師のサマーズと同じく、サックスと仲良くなることはなかった。


にも関わらず、サックスはロシア政府の関係者にシュライファーを紹介して回った。シュライファーはチュバイスやバシリエフと共に民営化を担当し、サックスはガイダルにマクロ経済の問題について助言するという分担がこの時決まった。

こうした役割分担があり、また1994年1月にはサックスはロシアを去っているので、民営化の不透明な過程にはサックスは関与していない、というのがサックス自身の主張であり、また、一般にも認められている話のようだ*6


シュライファーとサックスがモスクワにいることを聞きつけた国務省の国際開発庁(AID=Agency for International Development)は、ハーバードと契約を結んでロシア改革プログラムを託す。ハーバードは国際開発研究所(HIID=Harvard Institute for International Development)をその担当部局とし、シュライファーが実行部隊の責任者となった。この時、ハーバードだから大丈夫と思ったのか、AIDが監視の眼をきちんと光らせなかったこと、および、シュライファーだから大丈夫と思ったのか、ハーバードが監視の眼をきちんと光らせなかったことが、後の悲劇(?)につながる。実際にはシュライファーはその学者としての能力とは裏腹に倫理観に欠けた人物であったためにとんでもない事態になり、彼がジョナサン・ヘイというこれまた倫理観に欠けた人物をモスクワでの責任者として雇ったことにより、事態はさらに悪くなった。


サックスがロシアを去った後の1994年7月に、シュライファーとその妻は、明らかな規律違反であるロシア投資に手を染める。翌1995年にサックスはハーバード国際開発研究所(HIID)の所長に昇格するが、その時のシュライファーの反応はこうだ。

…(サックスのHIID所長への任命は)シュライファーにとって良いニュースではなかった。彼は、サックスがロシア・プロジェクトに手を出してくることを恐れ、ヘイにサックスには何も言うな、と指示した。しかし、それは杞憂だった。サックスはシュライファーの投資について何も知らなかった。サックスはただ、シュライファーにロシアの腐敗について警告し、現地採用者を入念にチェックするよう伝えた。


それから2年後、1997年4月10日にサックスはAIDの担当者から不正行為について知らされ、愕然とすることになる。サックスから電話を受けたシュライファーは、これはロシアへの援助に関してハーバードに負けた余所の大学の「復讐」だなどと言ってはぐらかそうとするが、時既に遅し。結局、翌月、サックスはシュライファーに引導を渡す。サックスは後に法廷でシュライファーの行為に対して怒りを露わにしている。

「このような投資をすることにより、シュライファー氏は、害をもたらし、利害の衝突をもたらした。…私はこのような投資を非常に不適切だと考える。…HIIDのコンサルタント、ないしロシア政府に雇われた人間としてこのような行為をすることは、HIIDに損害を与えるものだ。」


その後シュライファーは司法省に訴えられたが、多額の和解金を払って決着したのは昨日エントリで翻訳した冒頭部に書かれている通り。


シュライファーは今も(この記事によればサマーズの庇護のお蔭で)ハーバード大教授の地位にあり、経済学者として華々しい成功を収めている。事件の渦中の1999年には、ノーベル賞への登竜門とも言われるジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞している。ちなみにその時のデロングの祝賀スピーチがここに掲載されている。
(余談)デロングは自身も有名な経済学者だが、シュライファーの大学時代のルームメイトで、このスピーチや30日のエントリの注釈でも触れた彼のブログエントリ*7を読むと、(サックスとサマーズとは異なり)2人は今も固い友情を保っているようだ。そもそも、サマーズとデロングも固い師弟関係にあるのは有名な話だから、サックスもこの3人を同時に敵に回してさぞかし大変だったろう(サックスとデロングの対決はここで紹介した記事を参照)。


なお、HIIDは1999年にCID(Center for International Development)に衣替えするが、サックスは引き続き2002年までそこの所長を務めた後、コロンビア大に転じたとの由。

*1:訳注:ガイダル率いる経済学者のチーム。これ以前の記述では、チュバイスとバシリエフがメンバーとして挙げられている。なお、この記事のスキャンダルに関する記述では、バシリエフはロシア側の中心人物として描かれている。

*2:訳注:この前の段落で、ソ連時代にKGBを恐れていたことが書かれている。

*3:7日のエントリで紹介した記事でサックスが書評していた本。

*4:

State and Evolution: Russia's Search for a Free Market

State and Evolution: Russia's Search for a Free Market

*5:6日のエントリで紹介した記事を読む限り、必ずしもそう言い切れないようだが。

*6:見たところ、ただ一人そのストーリーに異議を唱えているのが、7日エントリの[補足2]で紹介したWedel女史で、彼女は民営化に関する各種資料にサックスのサインが残っていることを根拠に、彼が主導していたはずだ、と主張している。

*7:ただ、さすがにこのエントリのコメントにはシュライファーに対して厳しい意見も散見される。