引き続き、7/7エントリで紹介した本の内容まとめ。
今日はRobert E. Lucas Jr。
Robert E. Lucas Jr(1937-)
1995年ノーベル賞
合理的期待形成学派の開祖
【ケインズおよびケインズの一般理論について】
マクロ経済学の元祖。ただ、ケインズの考えを広めたのはヒックス、モジリアニ、サミュエルソン(彼らのケインズの評価も聞いてみたい)。一般理論は最も理解できない業績。それを20世紀で最も重要な業績と論じたソローにしても、研究業績にケインズの影響は見られない。この本は主流派の経済学者に何の有益な参考ももたらさなかったから、ケインズはこの本を著したことによって経済学の分野から自分自身距離を置いたのではないか。むしろ中央計画に頼らず自由民主主義的な方法で不況は解決できることを主張した思想上の影響が重要。しかし、その理論が現実の経済問題を解決する上で与えた影響はとても小さい。学生が読む必要はない。
【マネタリズムについて】
1960年代に私自身がマネタリストとして育てられた。フリードマンの影響は計り知れないものがあり、フリードマンなしでは現在の経済学はどうなっていたか分からない。しかし今日ではマネタリストの反革命の思想、および合理的期待の考えによって構築されたマクロ経済学はどこか違う方向に行ってしまい、貨幣の力をあまり重視しないリアル・ビジネス・サイクル論があるだけだ。といっても、私自身は今でもマネタリスト、それもフリードマンやメルツァーと同じく古いタイプのマネタリストだと思っている。マネタリストが考えを一つにする理由は、戦後期における米国経済の実質的な変動は、どんなデータを眺めようとも、貨幣の影響力無くして説明できない、という事実があるからだ。しかし、誰も見つけていないが、同変動の4分の1以上は貨幣の影響力では説明できない部分もあることは事実。
【合理的期待形成仮説ないしニュークラシカルについて】
私と私の仲間を一緒にしないでほしい。「私は何々派」というレッテルは役に立たない。また、革命などという言葉でも知られたくない。私の最も大切な論文は「期待と貨幣の中立性」(1972)だが、それはフェルプスが準備した学会で行ったフィリップス曲線についてのラッピングとの発表から生まれた。その時は労働供給決定の問題に集中していたが、労働供給の問題は経済状態によって様々な形態を取るものであり、労働供給の決定は個別にどのようになされるのかではなく一般均衡体系のもとに考えるべきだ、というフェルプスの忠告はとても刺激になった。私は情報を組み入れたモデルを構築し、予想したインフレと予想しないインフレの区別の問題にたどり着いた。他の研究者も各自の理論でこの問題を論じた。私の方法が他のどの方法よりも良いと思ったが、今では皆同じに思える。予想された貨幣供給と、予想されない貨幣供給の区別は、はっきりと分析される必要があり、それぞれがもたらす影響は戦後マクロ経済学の中心的なテーマ。今後もこの区別が忘れられたり捨て去られることのないよう願っている。労働供給における異時点の代替効果を認める有力な証拠がないというニュークラシカルへの批判については、批判者の言う「有力な証拠」が何を意味しているのか私には分からない。「ルーカス批評」は極めて重要だったが、もう色褪せてしまった。それは吸血鬼に十字架を突きつけるように人々を簡単にやっつけたが、人々はもう飽きてしまっただろう。
【ニューケインジアンについて】
ケインズ・モデルに対してミクロ経済学の基礎が必要だ、と言い始めたのはパティンキンだろう。1960年代のケインズモデルは実用的であり、重要な政策問題をきちんと数量的に議論できるモデルでもあった。その意味からすると、ニューケインジアンのモデルは数量的分析に適さず、統計資料を駆使することもできず、ダイナミックスさがない。また政策提言もできない。フリードマンは貨幣供給を各年4%増大すべきと言明し、オールド・ケインジアンは財政赤字による経済の再建などいろいろな目標を提言した。ニューケインジアンはマクロ経済学の中で何を問題にして、それをどう取り組もうとしているのか一向にわからない。
【リアル・ビジネス・サイクル仮説について】
「景気循環論に関する方法論と問題点」(ルーカス,1980)は、経済的変動が生産性の変化によってのみ生じるという目的で書いたわけではない。キドランド・プレスコットが私からアイディアをもらったという話を聞き、皆と同様私も驚いた。彼らは景気循環を趨勢からの乖離と見なしたが、フリードマン、トービン、そして私は大きな変化は供給側の要因によってもたらされ、変動は貨幣的ショックによって引き起こされると考えていた。驚くべきことに、彼らの考えは問題を解明するのに見事に役立った。私は今でもフリードマン、トービンの側に立っているが、彼らの研究によって我々の考えも随分変わったと言うのも疑いない。リアル・ビジネス・サイクルは学問的な論争を作り出すためには重要な役目を果たしたことは確かだが、その理論は単なる変動要因を説明する程度に過ぎないことから、やがて研究者から見向きもされなくなるだろう、という1989年のマンキューの意見に賛成。
【成長理論について】
新しい成長モデルの新しい点は、同じ条件のもとで豊かな国と貧しい国を分析できる新古典派的なモデルを考えたこと。1960年代は先進国の経済を分析する理論があり、一方で第三世界の経済を分析する理論がまた別にあった。当時は市場原理によって開発途上国の経済が成長するとは考えてもいなかった。
ソロー・モデルの意義は、ある経済の長期の成長率は技術の変化によってもたらされるものであり、我々が口先でどうこう言えることではない、とういうことを示したこと。一方、内生的成長モデルは、長期にわたる成長率は税体系などの経済の内生的要因によって決まってくるものである、ということを示している。といっても、内生的成長論のモデル分析の効果は一般に言われているほど大きくないと思う。
【非自発的失業と完全雇用】
[「失業に対する政策」(1978)でマクロ経済分析は非自発的失業の問題に惑わされることがなくなればさらに一層発展すると主張したのに対し、多くの経済学者は反対しているが、という質問に対し]確かに失業というものには非自発的な面と自発的な面の両方がある。仕事が自分の周りにあるときに(将来のよりよい機会を求めて)あえて仕事を求めないときの失業は自発的失業と認めてもよいだろう。仕事にありつけないときでも、まあ、そのうちもっと良い仕事があるさ、と思うこともある。
[その考えが欧州人を惑わせる、なぜならば欧州の失業は米国よりもはるかに深刻だから、という質問者のコメントに対し]それはそうだろう。
[欧州の多くの国の失業率は10%を超えている、という質問者のコメントに対し]自分の大学の近隣の失業率は50%にもなる。米国でも失業は大きな問題。
【経済学と数学】
[ケインズとマーシャルが数学者として出発したのに、途中で方向転換して経済学の考えを導き出すのに数学を重要視しなかったのはなぜか、という質問に対し]マーシャルが教育を受けたときもケインズが教育を受けたときも、イギリスは数学の分野で沈滞していた。二人が大陸で教育を受け、コルモゴロフ、ボーレル、カントール等と一緒に仕事をしていたらまた別の考えを抱いただろう。事実、ワルラス、パレート、スルツキーなどは2人と違った分析手法を用いており、数学的な経済学を確立した人々は当時は主に大陸にいた。
私は数学と一般均衡論が好きだが、フリードマンはそうではなかった。フリードマンは一般均衡論を展開する船に乗り遅れたと思う。