マクロ経済学はどこまで進んだか/Robert E. Lucas Jr

引き続き、7/7エントリで紹介した本の内容まとめ。
今日はRobert E. Lucas Jr。

Robert E. Lucas Jr(1937-)

1995年ノーベル賞
合理的期待形成学派の開祖

【影響を受けた経済学者】

シカゴ大学で歴史を専攻していたとき]経済の力というものを強調したベルギー人の歴史学者アンリ・ピレンヌの業績。(その後UCLAバークレー校でも歴史を専攻したが、シカゴへ戻って経済学に転換)
[研究上]非常に多くいる。大学院時代はサミュエルソンの「経済分析の基礎」に影響を受けた。フリードマンは素晴らしい先生だったが、一風変わった先生でもあった。

ケインズおよびケインズの一般理論について】

マクロ経済学の元祖。ただ、ケインズの考えを広めたのはヒックス、モジリアニ、サミュエルソン(彼らのケインズの評価も聞いてみたい)。一般理論は最も理解できない業績。それを20世紀で最も重要な業績と論じたソローにしても、研究業績にケインズの影響は見られない。この本は主流派の経済学者に何の有益な参考ももたらさなかったから、ケインズはこの本を著したことによって経済学の分野から自分自身距離を置いたのではないか。むしろ中央計画に頼らず自由民主主義的な方法で不況は解決できることを主張した思想上の影響が重要。しかし、その理論が現実の経済問題を解決する上で与えた影響はとても小さい。学生が読む必要はない。

ケインズが生きていたら第一回ノーベル賞を受賞していたか?+ノーベル賞関連】

初めの段階でもらっていたと思う。…私はジョーン・ロビンソンが第一回を受賞すると思っていたので、選考については最初から不信だった。

大恐慌について】

20世紀のマクロ経済上の出来事で大恐慌は2番目。第三世界に経済成長の波が伝播したことが1番。

新古典派総合について】

経済学における短期とか長期とかの区別はマーシャルの言葉だが、サミュエルソン新古典派総合の考えを打ち立てたのは、アメリカでは少なくとも新古典派的な考えに立って長期的分析が必要と主張したかったためだ。ケインズ自身は一般理論できわめて長期的な景気後退は需要不足から生じると明確に述べている。ケインズは短期的な微調整が必要だという説には我慢ならないだろう。

マネタリズムについて】

1960年代に私自身がマネタリストとして育てられた。フリードマンの影響は計り知れないものがあり、フリードマンなしでは現在の経済学はどうなっていたか分からない。しかし今日ではマネタリスト反革命の思想、および合理的期待の考えによって構築されたマクロ経済学はどこか違う方向に行ってしまい、貨幣の力をあまり重視しないリアル・ビジネス・サイクル論があるだけだ。といっても、私自身は今でもマネタリスト、それもフリードマンやメルツァーと同じく古いタイプのマネタリストだと思っている。マネタリストが考えを一つにする理由は、戦後期における米国経済の実質的な変動は、どんなデータを眺めようとも、貨幣の影響力無くして説明できない、という事実があるからだ。しかし、誰も見つけていないが、同変動の4分の1以上は貨幣の影響力では説明できない部分もあることは事実。

【合理的期待形成仮説ないしニュークラシカルについて】

私と私の仲間を一緒にしないでほしい。「私は何々派」というレッテルは役に立たない。また、革命などという言葉でも知られたくない。私の最も大切な論文は「期待と貨幣の中立性」(1972)だが、それはフェルプスが準備した学会で行ったフィリップス曲線についてのラッピングとの発表から生まれた。その時は労働供給決定の問題に集中していたが、労働供給の問題は経済状態によって様々な形態を取るものであり、労働供給の決定は個別にどのようになされるのかではなく一般均衡体系のもとに考えるべきだ、というフェルプスの忠告はとても刺激になった。私は情報を組み入れたモデルを構築し、予想したインフレと予想しないインフレの区別の問題にたどり着いた。他の研究者も各自の理論でこの問題を論じた。私の方法が他のどの方法よりも良いと思ったが、今では皆同じに思える。予想された貨幣供給と、予想されない貨幣供給の区別は、はっきりと分析される必要があり、それぞれがもたらす影響は戦後マクロ経済学の中心的なテーマ。今後もこの区別が忘れられたり捨て去られることのないよう願っている。労働供給における異時点の代替効果を認める有力な証拠がないというニュークラシカルへの批判については、批判者の言う「有力な証拠」が何を意味しているのか私には分からない。「ルーカス批評」は極めて重要だったが、もう色褪せてしまった。それは吸血鬼に十字架を突きつけるように人々を簡単にやっつけたが、人々はもう飽きてしまっただろう。

【ニューケインジアンについて】

ケインズ・モデルに対してミクロ経済学の基礎が必要だ、と言い始めたのはパティンキンだろう。1960年代のケインズモデルは実用的であり、重要な政策問題をきちんと数量的に議論できるモデルでもあった。その意味からすると、ニューケインジアンのモデルは数量的分析に適さず、統計資料を駆使することもできず、ダイナミックスさがない。また政策提言もできない。フリードマンは貨幣供給を各年4%増大すべきと言明し、オールド・ケインジアン財政赤字による経済の再建などいろいろな目標を提言した。ニューケインジアンマクロ経済学の中で何を問題にして、それをどう取り組もうとしているのか一向にわからない。

【リアル・ビジネス・サイクル仮説について】

景気循環論に関する方法論と問題点」(ルーカス,1980)は、経済的変動が生産性の変化によってのみ生じるという目的で書いたわけではない。キドランド・プレスコットが私からアイディアをもらったという話を聞き、皆と同様私も驚いた。彼らは景気循環を趨勢からの乖離と見なしたが、フリードマン、トービン、そして私は大きな変化は供給側の要因によってもたらされ、変動は貨幣的ショックによって引き起こされると考えていた。驚くべきことに、彼らの考えは問題を解明するのに見事に役立った。私は今でもフリードマン、トービンの側に立っているが、彼らの研究によって我々の考えも随分変わったと言うのも疑いない。リアル・ビジネス・サイクルは学問的な論争を作り出すためには重要な役目を果たしたことは確かだが、その理論は単なる変動要因を説明する程度に過ぎないことから、やがて研究者から見向きもされなくなるだろう、という1989年のマンキューの意見に賛成。

【成長理論について】

新しい成長モデルの新しい点は、同じ条件のもとで豊かな国と貧しい国を分析できる新古典派的なモデルを考えたこと。1960年代は先進国の経済を分析する理論があり、一方で第三世界の経済を分析する理論がまた別にあった。当時は市場原理によって開発途上国の経済が成長するとは考えてもいなかった。
ソロー・モデルの意義は、ある経済の長期の成長率は技術の変化によってもたらされるものであり、我々が口先でどうこう言えることではない、とういうことを示したこと。一方、内生的成長モデルは、長期にわたる成長率は税体系などの経済の内生的要因によって決まってくるものである、ということを示している。といっても、内生的成長論のモデル分析の効果は一般に言われているほど大きくないと思う。

非自発的失業完全雇用

[「失業に対する政策」(1978)でマクロ経済分析は非自発的失業の問題に惑わされることがなくなればさらに一層発展すると主張したのに対し、多くの経済学者は反対しているが、という質問に対し]確かに失業というものには非自発的な面と自発的な面の両方がある。仕事が自分の周りにあるときに(将来のよりよい機会を求めて)あえて仕事を求めないときの失業は自発的失業と認めてもよいだろう。仕事にありつけないときでも、まあ、そのうちもっと良い仕事があるさ、と思うこともある。
[その考えが欧州人を惑わせる、なぜならば欧州の失業は米国よりもはるかに深刻だから、という質問者のコメントに対し]それはそうだろう。
[欧州の多くの国の失業率は10%を超えている、という質問者のコメントに対し]自分の大学の近隣の失業率は50%にもなる。米国でも失業は大きな問題。

【1970年代のオイルショックおよびスタグフレショーンについて】

1970年代のインフレとケインズ経済学の消滅との関係を論じるのは少々無理がある。しかし、1970年代後半に発生したインフレを考えれば、そう(=インフレがケインズ経済学の衰退をもたらした)とも考えられる。
ブラインダーは、1970年代の米国のケインズ主義はフリードマンフェルプスの命題を吸収し、OPECの供給ショックの効果を考えに入れて「修正されたケインズ・モデル」に形を変えたというが、OPECショックの直接的な影響は小さかったと思う。

【自然失業率とNAIRU、およびフィリップス曲線について】

フリードマンフェルプス命題の長期的なフィリップス曲線でのトレードオフは無いという考えに同意。この2人の研究は私に計り知れない影響を及ぼした。フェルプスフリードマンが導出したよりももう少し鮮やかに理論を導き出した。

【経済政策について】

公平に見て、1970年代より先進資本主義国はインフレ退治に関して実に素晴らしい成績を残した。しかしラテンアメリカなどで、インフレが大きな問題になっている国や、貨幣供給の伸び率抑制によるインフレコントロールを無視している国、返済義務の放棄を狙ってわざとインフレを作り出している国もある。ニクソンとフォードは金融政策に関してはへまばかりしていた。
ニュークラシカルの政策的提言の一つに、貨幣が増大されるかもしれないと予想される短期においては、インフレと失業の間にトレードオフは存在しない、というのがあるが、ある状況において「予想される」かどうかを見極めるのはほとんど不可能に近い。

【経済学者間の意見の一致について】

私にとって最も興味ある論争はいろいろなモデルの良し悪しについてではなく、ある特定のモデルが意味があるのかという論争(例:メーラ=プレスコット「資本への報酬」)。経済学者以外が社会のシステムが均衡かなどと議論するのはナンセンス。均衡は物事を見るときの一つの見方で、それが現実に意味していることはわからない。
マクロ経済学でも全部ではないが多くの問題に関して意見の一致をみていると思う。飢餓問題の解決や、一人当たり国民所得上昇の必要性などで一致している。さらに、技術の問題、供給重視の問題、長期的安定性の問題といった様々な問題に一致して注目するようになった。

【マクロとミクロの関係】

マクロ経済学ミクロ経済学の基礎を十分取り入れる必要があるとは必ずしも思わない。必要とするならば、マクロ経済学のモデルを何のために使うかによる。

【経済学と数学】

ケインズとマーシャルが数学者として出発したのに、途中で方向転換して経済学の考えを導き出すのに数学を重要視しなかったのはなぜか、という質問に対し]マーシャルが教育を受けたときもケインズが教育を受けたときも、イギリスは数学の分野で沈滞していた。二人が大陸で教育を受け、コルモゴロフ、ボーレル、カントール等と一緒に仕事をしていたらまた別の考えを抱いただろう。事実、ワルラス、パレート、スルツキーなどは2人と違った分析手法を用いており、数学的な経済学を確立した人々は当時は主に大陸にいた。
私は数学と一般均衡論が好きだが、フリードマンはそうではなかった。フリードマン一般均衡論を展開する船に乗り遅れたと思う。