マクロ経済学はどこまで進んだか/Milton Friedman

引き続き、7/7エントリで紹介した本の内容まとめ。
今日はMilton Friedman

Milton Friedman(1912-2006)

1976年ノーベル賞
マネタリストの総帥

【影響を受けた経済学者】

シカゴ大学院時代に、ヤコブ・ヴァイナー、フランク・ナイト、ロイド・ミンツといった先生たちに、FRBの貨幣供給の減少という政策の失敗によって大悲劇が起こったと教わった。それがケインズに対する私のアプローチと、アバ・ラーナーのアプローチの基本的な違いをもたらしたのだろう。シカゴ大経済学部の大多数はハイエクの考えに近く、ケインズの一般理論は簡単に受け入れられなかった。

ケインズおよびケインズの一般理論について】

今世紀が生んだ最大の経済学者の一人。一般理論も卓越した知的遺産。物事を単純に解明する力を持ち、問題の本質を見つけ出して取り除く仕事をするという、よい理論の特徴をそなえている。しかし、(次に何が起こるかわからない世界において不況が起こった場合の指示を与えたという点で)不成功に終わった実験だった。科学を進歩させるのはそういった不成功に終わった実験である。
一般理論でケインズは「不況を克服する方法はこれだよ、いや、いたって簡単さ」と主張しているように見受けられた。不況の原因はオーストリア学派の考えにあると言っているようだった。
私はケインズの業績の中で「貨幣改革論」(1923)が一番良いと思うが、この本は随分過小評価されている。「確率論」(1921)も過小評価されているが、この本の序章でケインズ統計学ベイジアン理論と同じことを述べている。彼は期待という概念について信用という言葉を使っている。

ケインズが生きていたら第一回ノーベル賞を受賞していたか?+ノーベル賞関連】

いつ授与されるかによって贈られる賛辞は違っただろう。1969年なら大恐慌からの脱出策、1989年なら確率論の駆使と。…ただの推測だが。

大恐慌について】

アバ・ラーナーなど当時経済学を学んでいたほとんどの人々は、大恐慌は、これまでの拡大政策によってもたらされた積もり積もった弊害を取り除くためのいわば浄化的なものである、と教えられたが、これほど間違った考えは無い。その憂鬱な空気を突き破るように登場したのが一般理論。
景気循環について人々が研究し始めたのは、大恐慌と言う社会的現象が起こった結果だ、ということは疑いが無い。

マネタリズムについて】

フリードマン「貨幣数量説の再検討」(1956)はケインズ流動性選好理論をより精密化したという意見は間違いだ。一部が流動性選好理論と一致しているにせよ、この理論はケインズ以前の貨幣理論の延長にある。そもそもケインズは「貨幣改革論」(1926)で貨幣数量説を支持する理論家としての立場を明らかにしている。この本は第一次大戦後のインフレなどにそれまでの理論を応用したものだが、私は一般理論よりも説得力があると思っている。この本の貨幣数量説と流動性選好理論の本質的な違いは流動性の罠だけだが、私の「再検討」でも流動性の罠という考えは無い。それは分析上必要ない。1980年まで安定していた貨幣の需要関数が不安定になったことは、貨幣が成長に及ぼす役目に水を差したとも言えるが、M1からM2へのシフトと考えればそうでも無いとも言える。ルーカス(1994)がフリードマン=シュワルツ「アメリカ合衆国の貨幣の歴史」(1963)にとって1970年代は栄光の時代だったが、1980年代に不況の波に見舞われたことからこの本の主張を見直すべきだと述べた事に関しては、自分の著書が栄光の時代や不況をもたらしたというふうにみたことがないので答えようが無い。この本の刊行後30年に出てきた三つの見解の中では、フリードマンは歴史的に実証的に理論を検証する尊さを教えた、というジェフリー・ミロンの見解が一番好きだ。質の良い理論は、ケインズ理論のように、人がその理論に対してきちんと議論でき、その理論をもとに社会の変化を論ずることができるものだが、「貨幣政策の役割」(1968)は社会の変化を論ずるのに役立ち、1970年代のインフレを予測した。この本は理論面で影響を及ぼしたが、「実証的経済学の方法論」(1953)は方法論でやはり同じくらいの影響を及ぼした。
ケビン・フーバーがフリードマンの業績をマーシャル的、ルーカスの業績をワルラス的というように方法論的に区別したのは、全体として正しいと思う。

【合理的期待形成仮説ないしニュークラシカルについて】

ルーカスの業績が経済学の中で最も影響力のある一つの業績とは思わない。この考えは以前から何らかの方法で存在していた(シュンペーターなど)。適応的期待アプローチも期待というものを実証的に検証できる一つの分析手法だった。この適応的期待は当初人々が考えたような結果をもたらさなかったが、トム・サージェントが行った研究でその効果が解明された。合理的期待というもののもともとの考えはムース(1961)だが、ルーカスの大きな功績は、仮説的な合理的期待という考え打ち立て、実用化した点にある。即ち、計測できないと見られがちな合理的期待の中で実証的に分析可能な部分を取り出す方法を数学的かつ計量的に示した点にある。ルーカスが精力的に展開した理論には彼の名前が付けられたが、どんな理論でも名前が付けられるということは素晴らしいことであり、その理論に対して決して小さな評価をしてはいけないとうことだ、。政策無効の命題は、もし人々が将来を正しく予測したときにのみ理論的展開がされる、ということだが、そう物事は予測したとおりに運ばないものだというのが一般的。1980-82年の不況は完全にこの理論の裏をかいた。

【ニューケインジアンについて】

ニューケインジアンの貢献が何かということに関しては、あまりその問題を深く追究していないので、十分答えられそうに無い。

【リアル・ビジネス・サイクル仮説について】

リアル・ビジネス・サイクル論は、これまで経済学者たちが精力的に研究してきた成果の一つであり、真新しい考え方と言える。
貨幣の役割を過小評価するいわゆるリアル・ビジネス・サイクル論はそう有効な理論では無かった。リアル・ビジネス・サイクル論では体制を撹乱する要因は往々にして外からやってくると強調しているが、実際に体制を撹乱する要因は外からではなく内にあるものであり、通常は貨幣的な要因と考えられる。

【自然失業率とNAIRU、およびフィリップス曲線について】

フェルプス(1967)は長期的にインフレと失業の間にトレードオフの関係は存在しない、と述べたが、彼は労働市場から、私は貨幣側から分析したという違いはあるが、内容は同じだ。
私の自然失業率の定義とケインズ完全雇用の定義に違いはあるかというのは難しい質問だが、両方ともヴィクセルの自然利子率に関係しており、大きな差があるとは思えない。ケインズ完全雇用の定義は、不満足な被雇用者はいない=現行の賃金でも働きたい人は何らかの仕事を持っている状態と理解している。自然利子率に対する私の定義は、需要と供給が一致しており、そこでは超過供給も超過需要も存在せず、人々の期待が満たされるときに達成される率のことを意味している。
予期せぬインフレと失業の間には、もしかしたら短期的に何らかの関係がありそうだ。

【経済政策について】

緩やかなインフレに対してはそう神経質になる必要は無いと言う意見に賛成。大きなインフレを生みそうな要因はつまみ出しておかねばならないが、実は最もそれが難しい。
財政政策は経済の短期的な変動を正すには効果的な手段とはなり得ない。長期的には、様々な使用目的のために資源の最適配分をするというような政策では十分な役割を果たすと思うが、この点については今後の分析を待たねばならない。大恐慌を立て直したのは財政政策ではなく、有効に働いた金融政策のお蔭だった。日本の中央銀行の(1996年から)過去5年間の行動は、1929年以降のFRBの行動の物真似のようだった。
1980年代初頭以降の欧州の持続的な高失業は、過度の福祉政策と制度上の硬直性が原因。
ブレトンウッズ体制確立から9年後の1953年に変動相場制の必要に言及した論文を発表したが、変動相場制の変動の激しさは予想以上だった。その際念頭に置くべきことは、一つは1971年当時世界は誰も経験したことのないような貨幣システムの上に成り立っていたこと、もう一つは固定相場のままあの状況を迎えていたら自由貿易に大幅な干渉を余儀なくされたであろうから、為替相場が変動するのは良いことだった、と考えることである。欧州通貨統合には願望と可能性の相異なる2つの考え方があるが、あくまでも達成できないような願望ではないか。通貨統合よりも政治統合が先に来るべきだと思うが、政治統合が成功するとは思えない。
ボルカーの政策は貨幣総量のそれまでにない変化を伴ったことから、マネタリストの考えに従ったわけではない。一方、大きな経済変動を避けようとした国の政策や、1980-1995年の各国の貨幣政策を見ると、貨幣数量の大幅な減少と共にインフレもなくなっており、インフレは貨幣的現象であると言う命題をまさに実証している。
政府がインフレを作り出すのは、税の自動的な増収と過去の債務の帳消しをもたらすからだ。税率を物価にスライドさせること、債券市場がインフレにきわめて神経質になったことは、その効果をなくすので、将来そう大きなインフレがはびこることはないという自信が私にはある。インフレは産出−雇用の犠牲なしには下げられないので、起こすべきではない。

【経済学者間の意見の一致について】

マネタリストは主として市場を均衡させようとすることに関心があるのに対して、ケインジアンはもともと市場は不均衡になりやすいものであるから市場への介入は不可欠であると考えている、という見解には賛成しない。マネタリストであろうがケインジアンであろうが全ての経済学者は大なり小なり市場の失敗はあると認めている。本物の経済学者かどうかは市場の失敗を認めるかどうかではなく、政府の対応策に適切な助言ができるかどうかである。このことは、経済学者が様々な問題を論じるときに生じる時間的な認識の相違に関係していると思われる。私自身多くの経済学者が言うほど市場を均衡させる力というものの存在は信じておらず、市場の失敗に対応する必要がある際の政府の能力に多くの経済学者よりも疑いを持っている。


経済学者の意見の中での多くの不一致は、経済政策の主たる目標は何かということではなく、目標を達成する手段の選択について生じることが多い。[1968年American Economic Review論文より質問者引用]


もし伝統的な考えに反対ならば、すぐに批判すべき。第一に人々は無意味な考えに我慢ならない。第二に無意味な考えに対しては何らかの行動をすべき。第三に理論として残っても人々の心の中に残らなくなったらおしまいだ。

【マクロとミクロの関係】

[経済学者がマクロ経済学の問題で意見が異なることが多いが、ミクロ経済学の問題では意見の一致が見られるのはなぜか、という質問に対し]マクロ経済学の分野で見られるケインズ革命というような何か革命的な理論展開がミクロ経済学の分野に無かった。チェンバレンやロビンソンの不完全競争の理論はミクロ経済学の分野での卓越した業績と言えるが、いつしか伝統的な古典派の議論の一部になった。ごく限られた範囲で展開されるミクロ経済学の理論的基礎は、マクロ経済学では大して重要ではない(モデル構築の際に設ける仮定を作り上げるもとにはなるが)。マクロ経済学で重要なのは、議論が沸々と湧いてくるような実証的な理論。

【経済学と数学】

「新しい皮袋の中の古い酒」(1991)では、今の経済学は、現実の経済問題を扱うことを避けて、神秘的な数学の一分野になってしまっている、という事実を訴えようとした。近頃は専門家しか理解できない論文が多く、その傾向は経済学の発展にとって必ずしも好ましいことではない。その意味で「経済学の研究は質的に低下したか」という質問は案外正しい。(1991年の論文では経済学という学問は「分析の機関車」だという説を唱えたが)技術的、理論的な体系としてのは近年随分進歩したことは間違いない。